クラッシュ (2004)
»掲示板
考え続けること。
2007/05/19
by
としぞ。
ハギスの怖さを感じたのは、M.ディロン演じる黒人差別主義者の警官・ライアンのエピソード。
ストーリーの後半ライアンは、事故によって自動車内に閉じ込められた女性を助ける救出劇を演じるが、その女性は前夜の取締りの際に彼が侮蔑的な態度で接した黒人TVディレクターの妻クリスティンで、昨夜の顛末を見せられている観客にとっては「果たしてライアンはどうするのか?」と、ある意味ドキドキのシーンだが、クリスティンは無事ライアンに助けられる。
多くの方は、差別主義者だったライアンがその憎悪の対象だったはずの黒人を助ける姿に映画が提示するテーマのひとつである「人間の両義性」を感じ、人種や偏見を超えた「ヒューマニズム」に心を動かされたのではないか、と思うのだが、そんな「感動」を観客に覚えさせたのは、前夜の取り締まりのシーンで、露悪的とも言える描写で黒人に対するライアンの差別意識を見せたことに他ならない。
世の中には、第一印象が最悪だった相手がふとしたことで見せた優しさに「なーんだ、ホントはいい奴じゃん」とあっさり意識が変わってしまうことがある(らしい)。その負と正のギャップが大きければ大きいほどシンパシーは増すが、ライアンとクリスティンの関係も同様だ。前夜の二人の関係を執拗に見せていたからこそ、相反する二人が助け、助けられというドラマに感動を覚える。
しかし、冷静に考えたら、警官が困っている相手を助けるのは当然のことで、ライアンの行動も職務を忠実に遂行したに過ぎない。にも関わらず、観客がそんな当たり前の図式に目を向けることなく、二人の関係性のみに注視「させられ」、感動に着地「させられてしまう」ことにハギスの怖さを感じる。
ハギスはこの映画について「人は皆判断されるのを嫌うが、他人を判断することには何の矛盾も感じない。そして自分が判断したことにどれほど驚かされるか」とインタビューで語っている。
これは「先入観」の危うさを述べていることだと思うのだが、救出劇で感動し、カタルシスを覚えることは、まさにその「先入観の危うさ」ではないのだろうか。
ライアンによる救出劇に感動を感じるのはもちろん観客個々の自由なのだが、むしろ注目すべきなのは救出後のライアンの姿だろう。現場に佇むライアンの表情からは戸惑いのような感情が強く読み取れる。そこにあるのは、人種を超えた人間愛に目覚めた想いなどではなく、「人として、警官として当たり前の行動をした自分」と、「差別主義者であるにも関わらず黒人を助けた自分」との内的葛藤ではないのか、と感じる。
救出劇に感動を覚える発端となっているのは、前夜からの一連のライアンとクリスティンの関係性であり、その関係性はハギスによって与えられた「先入観」だ。ハギスは、救出後のライアンを描写することによって予め与えた「先入観」を壊し、インタビューで語っていた「自分の判断したことにどれほど驚かされるか」というテーゼを観客に突きつけているのではないか。
結局、救出後もライアンは、「差別主義者」としての自分を捨てない、と思う。そう容易くは変わらないのが「差別問題」の本質であり、S.ブロック演じるジーンのエピソードにもそれは感じられる。
冒頭のカージャックに遭ったことでマイノリティへの偏見を募らせるが、ラスト近く、階段から落ちる事故によって
ヒスパニック系のメイドに親愛の情を示す言葉をかける。
しかし、たかだか階段に落ちた身に優しくされたことで翻るような改心がどれほど続くのだろうか。しかもメイドが助けた行為は、ライアンの時と同様の「忠実に職務を遂行した」こと以外の何者でも無い。
この映画は、ラストがファーストシーンにつながるというループの構造を取っている。言い換えるなら「出口の無い物語」だ。その構造は、おそらく変わることは無いと思われるライアンやジーンのような差別意識や、何度も繰り返される銃による悲劇、といった、現状では悪しきループを描くしかない問題を象徴している。
そんな「出口の無い物語」だから、この映画には問題に対する答えは何ら提示されていない。しかし、「先入観」によって人や物事を見る危うさは物語のそこかしこに散りばめられている。
冒頭、交錯する轍に降り注ぐ雪は、人間の交わりの意味を
見えなくしてしまう、或いは見ようとさせなくしてしまう「先入観」なのではないか。そして、雪が完全に轍を覆い隠してしまうことは、思考の停止を意味するのではないか。ハギスが見せた物語が出口も答えも無い物語ならば、
それを受け止める側の態度はたったひとつ、「考え続けること」なのではないかと思う。
返信を投稿
Copyright©2008 USEN GROUP All Rights Reserved.








