武士の一分 (2006) »掲示板

武士の一分とは…… ネタバレ

2006/12/22 by 山川 きゅうり

武士の一分

この映画に描かれている武士の一分とは一体何なのか。

妻を寝取られたことが、主人公が果たし合いをするほどのことなの?といった意見もあるが、私はそうは思わない。

妻を寝取られたというのはあくまで結果にすぎず、そこに到達するまで、主人公の色いろなものが踏みにじられていることに注目しなくてはいけない。

毒味役としての任務を全うした上で、失明をした主人公に襲う失職の危機。生活の維持ができるという保障もなくなり困ったところに、上役から、生活の保障の口利きをしてやるとの妻への甘い言葉。失明した主人公は武士としての自信も将来の夢も断たれる。妻はそんな主人公の姿が見ていられず、上役の口利きとの引き換えに体を売る。しかし上役からの口利きは実際にはなかった……。

まず、この映画の中で主人公の周囲に、主人公が精神的な支えとしてきた武士が本当に出てきたのか、考えてみるとわかりやすいのかもしれません。

私には、主人公に「武士の一分」という言葉を発せさせた理由が、たいしたことではない、とはとても思えません。

 

  • Re: 武士の一分とは……

    2006/12/24 by 無責任な傍観者

    ここで言う『武士の一分』はいわゆる「恥」ですね。
    緒形「何故そこまでして復習しようとする?」
    木村「……それは武士の一分にてご勘弁」
    木村の場合は妻を他人に寝取られたという事実は武士としての名誉に関わるから、理由を言うのは勘弁してくれ。
    赤塚「三津五郎は評定役に聞かれても誰に斬られたかは言わなかった」
    三津五郎は柳生?の免許皆伝を普段自慢していたにも拘わらず盲目の下級武士に斬られたのは武士としての名誉に関わるから言いたくない。

    木村と三津五郎は「下級武士と上流階級」「地位に関して無欲と野心」「人間性として正直と詐欺」と分かり易いぐらい漫画チックに好対照の人物として描かれていて、同じ『武士の一分』という言葉を使っている。
    正反対の人間の使った『武士の一分』とはどこが違っていたのか? 或いは結局同じポリシーの対照的な人生を描きたかったのか?
    更には『武士の一分』で排除したかった不貞な妻の存在を最後に許したことは、自らの『武士の一分』を否定することである。
    4コマ漫画並みに単純なストーリー構成でありながら趣旨が支離滅裂。

    例えば、よくありがちな「復讐を果たしてみたら結局武士のバカらしさに気づいて、武士を捨てて『武士の一分』も捨てた」というテーマであればもっと別の描き方になっていたはず。
    「武士を捨てて、家屋敷・身分を捨てて不貞を犯した妻を許して新しい人生を歩む」といったストーリーになるはず。

    この映画のテーマである『武士の一分』とストーリーの関連性は一体どうなっているの? あまりに酷すぎる。

    『武士の一分』がテーマでなければ、うやむやにしても目立たないが、映画の顔ともいえる『タイトル』です。
    木村の動機付け以前に監督がこの映画に対する思い入れがないとしか、考えようがありません。
    単純なストーリーであればテーマも完結であるべきで、この映画の場合は全ての点で手抜きをしていたと判断せざるを得ない。
    制作者の魂を捨ててキムタクというコマーシャリズム信奉主義者と化してしまったかと残念でなりません。
    山田監督も賞味期限切れなのかなあ?

  • 私も「武士の一分」には少し不満を感じました ネタバレ

    2006/12/24 by 理屈屋

    山川きゅうりさん、無責任な傍観者さん、こんにちは。

    > この映画に描かれている武士の一分とは一体何なのか。

    この映画を見て、私もこの点に少し疑問を感じた者の一人です。

    根拠も全くなく、単なる私の思い込みですが、
    主人公は、妻を手打ちにして、果し合いで敵を倒し、最後に自らが斬った妻を想い、妻のいない寂しさに泣くラスト、というのが、「武士の一分」というタイトルから私の感じたイメージです。

    「武士の一分」っていうのはそういうものではないかなぁと、思っています。

  • なるほど

    2006/12/24 by 無責任な傍観者

    >主人公は、妻を手打ちにして、果し合いで敵を倒し、
    >最後に自らが斬った妻を想い、妻のいない寂しさに泣くラスト、
    >というのが、「武士の一分」というタイトルから私の感じた
    >イメージです。

    私もそれが『武士の一分』という言葉をタイトルにした時のベストチョイスだと思います。

    ハッピーエンドにしたいなら、『武士の一分』という言葉を使うべきではありませんでしたね。

  • Re: 武士の一分とは……

    2006/12/25 by taru

    >>理屈屋さん

    >根拠も全くなく、単なる私の思い込みですが、
    主人公は、妻を手打ちにして、果し合いで敵を倒し、最後に自らが斬った妻を想い、妻のいない寂しさに泣くラスト、というのが、「武士の一分」というタイトルから私の感じたイメージです。

    一口に「武士」と言っても、ピンキリだということがあの映画で分かりましたね。主人公は毒見役の仕事で失明し、安静を得てから主君に見えることになりましたが、やぶ蚊の多い地面に這いつくばって、廊下を通りかかった主君に大儀大儀と言われただけでした。

    それに毒見役と言っても太平の世の中、ただ形だけのもので、毒見をしたらすぐ主君の所へ運んでしまうし(遅効性の毒だったらどうするんだ)、上役は役目の途中で眠っているし、そもそも本人が自分の役目が嫌で仕方がない。さっさと止めて町道場でも始めたいと思っている毎日でした。

    要するに、主人公は武士とは言っても自分の仕事に誇りも持てない最下層の人間なのでした。その主人公が妻にも裏切られ、最後に人間としての誇りを失わないために立った場所が<武士の一文>なのでした。

    それが「武士の大義名分」なら妻を手打ちにすることもあったでしょうが、大義名分ではなく、<一文>なのです。最後のぎりぎりの体面、人間としての誇りの問題なのです。妻を手打ちにするなんていうのは、世間体の問題でしょう。許せないなら離縁すれば事足りるのです。

    島田との決闘も人知れず二人だけのものでした。世間は関係なく、自分が人間としての誇りと共に生きてゆくことが出来るかどうかという問題、それが<武士の一文>なのでした。ですから、島田に勝って
    もそれを誰に明らかにする必要もないのでした。

    騙されてみさおを奪われた妻はいたわってやるべき存在ではあっても、切り捨てる相手ではありません。

  • Re: 武士の一分とは……

    2006/12/26 by 山川 きゅうり

    無責任な傍観者さん、理屈屋さん、taruさん、ありがとうございます。

    一つの映画でもいろいろな味方ができるのですね。

    私としては、taruさんの意見にかなり近いと思います。

    もし主人公に「武士の一分」という言葉を発せさせた主な理由がが、妻が寝取られたことだとすれば、この映画もっと短縮できると思います。

    でも、そうしないのは、妻が寝取られたということは、主人公に何かを決意させたきっかけに過ぎないということだと思うのです。

    それに主人公が「武士の一分」という言葉を発する時は、完全に捨て身です。組織に属している一人の武士の発する「武士の一分」という言葉とは違います。おそらく主人公は、組織のことなんてこの時点では考えていないでしょう。自分なりの「武士の一分」なんでしょう。そういう風に描かれていた気がします。

    そもそも主人公の周囲に、当時の人にとっては精神的支柱にあった武士の姿なんて皆無です。形式ばかりで中身はない、そんなことを主人公は失明した後に訪れる自分の境遇で身をもって知るわけです。

    ここで言う『武士の一分』はいわゆる「恥」ですね。

    私は、主人公が「武士の一分」と言葉を発したのは、世間体としての「恥」よりもっと、自己の内面に向き合った言葉として捉えています。

    皆さんはどう思いましたでしょうか。

  • Re: 武士の一分とは……

    2006/12/26 by 無責任な傍観者

    >騙されてみさおを奪われた妻はいたわってやるべき存在ではあっても、切り捨てる相手ではありません。

    この時代、「不義密通は死罪」です。
    これは刑罰であると同時に、その時代に人達の「道徳」でもあります。
    特に武士階級では子供の頃からそれを当たり前のこととして育てられます。

    「ヒューマニズムで可哀想だから殺すのはいけない」というのは現代のモラルで、現代劇ならそれもありですが、時代劇だとちょっと違和感があります。
    しかもこのシリアスな物語設定に於いては不似合いだと思います。

    >妻を手打ちにするなんていうのは、世間体の問題でしょう。許せないなら離縁すれば事足りるのです。

    世間体を気にするから斬らないのでは? 斬ったら騒ぎが大きくなるから離縁状を突きつけて世間に知られないようにひっそりとどこかに追放するのだと思いますが。

    >最後に人間としての誇りを失わないために立った場所が<武士の一文>なのでした。
    >自分が人間としての誇りと共に生きてゆくことが出来るかどうかという問題、

    彼の行動はそんなに格好いいモノではありません。
    「武士の体面」と「人間としての誇り」のようなことは全く考えていないはずです。
    彼が欲したのは自分自身の「生存価値」です。
    人間らしい行動をする能力が無くなり、信じていた妻にも裏切られる。
    彼はあの時点で人間として何も残っていない。「生存する意味」を自分自身に見出せなかったんです。
    彼に唯一残った生存意義である「恨み」を晴らすために裏切った妻を騙した三津五郎を斬ろうしたのが決闘。
    だからこそ斬られて死んでも良いと思っていた。自分自身に何らかの「ケリ」を付けたかったんです。

    で、彼が発した「武士の一分」は決闘の理由を聞かれた時に発したのですから、あの時点では妻を恨んでいる。不倫相手も恨んでいる。
    自分自身に何らの価値もない状況で、妻に裏切られた事に対する復讐をしたいというのが恥ずかしかったんですよ。
    不義密通が死罪というのが当たり前の中で、裏切った妻に対する「未練」とも思われかねない「復讐」は武士として恥ずかしかったん
    です。
    だから武士の本分ではなく、武士の一分なんです。自身の未練からやる私闘は本分にはなりません。
    彼は剣の達人です。盲目になっても相手の気配が読み取れるぐらいの剣の腕を持っています。
    武士としての誇りも持たない卑屈でいい加減な人間がそれほどの剣の修行が出来るわけがない。

    この物語は鍛錬して免許皆伝を取得し、その後極限まで追い詰められた人間が主人公です。
    「武士の一分」という精神世界を描くには、制作者がダメすぎ。軽薄すぎます。

    しかも役者が方言も満足に喋れない大根とくれば、くっついた分かれたで一喜一憂する現代劇にするか、
    主人公のハンディキャップ設定をやめにして、ホームドラマにする、或いは、目が見えなくなっても必死の修行で復讐を果たす痛快剣豪モノにした方が良かったであろうと思います。

  • 恨みではないでしょう。

    2006/12/26 by 山川 きゅうり

    無責任な傍観者さん。

    彼が発した「武士の一分」は決闘の理由を聞かれた時に発したのですから、あの時点では妻を恨んでいる。不倫相手も恨んでいる。
    自分自身に何らの価値もない状況で、妻に裏切られた事に対する復讐をしたいというのが恥ずかしかったんですよ。

    私は、この映画を見て「恨み」とか「復讐」という言葉は不思議と出て来ませんでした。

  • Re: 武士の一分とは……

    2006/12/26 by taru

    >>無責任な傍観者さん

    >この時代、「不義密通は死罪」です。
    これは刑罰であると同時に、その時代に人達の「道徳」でもあります。特に武士階級では子供の頃からそれを当たり前のこととして育てられます。

    なぜそうだったのかと言えば、すべては「家」制度のためでした。正当な後継ぎが生まれないと困るからでした。で、それさえクリアーできれば問題ないので、男はいくらでも遊ぶ場所があったのでしたね。

    ですから、「子供の頃からそれを当たり前のこととして育てられ」ても、大人になるとその偽善性にうんざりして、この映画の島田のように不埒な輩も現れてくるということになるのでした。

    この映画の主人公は最下層の武士として禄を食んではいても、毒見役という仕事が嫌で、それを止めて、町道場を作って町人や百姓にも剣道を教えて食ってゆきたいと考えていたのですから、守るべき「家」といっても大したものではなかったのです。まあ、目が見えなくなってみるとそれでも主君に保証された禄はありがたい訳ではありますが、その(家)ために妻の裏切りが許せなかった訳ではないし、むしろその(家)ために妻は騙されてしまったのですし、その(家)ために事態が表ざたになるのを避けて、こっそり離縁したのでもなかったと思います。

    かつての日本人ほど、本音と建前が乖離していた民族はいなかったかもしれません。この映画の主人公は武士の建前で行動していたのではないと思います。人間としての本音の部分で許せないと思ったからこそ決闘を申し込んだのです。彼がたまたま武士だったから「武士の一文」と言ったまでのことなのです。端的に言えば、「俺は許せんのです」ということなのです。

  • 前に書いたことの続き ネタバレ

    2006/12/26 by 理屈屋

    みなさん、こんにちは。
    「武士の一分」について、前に書いたことを少し膨らましてみます。

    前に、
    主人公は、「妻を手打ちにし、敵を倒し、妻を想って泣く」と書きましたが、その後最後に「敵を倒したのは妻の操の仇討ちではないと公に示すため、腹を切る」と実は続いていました。理解してもらえないと思って伏せていました。

    が、話を盛り上がらせるため、私の妄想を書いてしまいます。

    まず、主人公は、困った場面に遭遇しました。それは
    1妻が自分を理由はともかく結果として裏切った
    2それは上司のサムライの犯罪行為による
    という2点において困った状況なワケです。

    で、私のイメージする侍というのは、あくまでもこの2つに対して公平かつ潔癖に対処しなければならないのでありまして、ちゃんと妻をも罰しなければならないのです。そうしなければ妻の犯した過ちは決して消えることがないワケです。
    この場合、妻が自害するという方法もありますが、やはり被害者である夫が手打ちにするのが罪の償いとしてベストだと思います。

    妻側から考えましても、離縁などされて、恥を忍び罪を背負っておめおめと生きてゆくことなど、耐えられない侮辱なのであります。「あなたのためにしたことなのだから、私を愛しているならそれを認めてあなた自身が自ら手打ちにして下さい」と申し出るのが「武家の妻の一分」だと私は思うのであります。

    次に、この困った状況のもともとの原因となった敵を倒すのは当然のことであります。
    しかし、敵を倒すのは妻のためではありません。妻を寝取ったという、自分に対する侮辱に対する「武士の一分」がその理由であります。
    身分が遥かに上、とはいえ、「武士の一分」を踏みにじる行為には、毅然として挑まねばなりません。
    決してユメユメ妻のために他の男と争うなどというハシタナイことは、侍ならば絶対にしないのでありますし、人にそのような言われる恥辱を受けることもあってはならないのであります。

    ですから、見事敵を倒した暁には、これが私怨に基づく私闘ではなかったこと、妻の操を奪ったことに対する復讐でなかったこと、ただ自らの身の上に起こった困った状況を見事自らの力で解決したのだということを世間に知らしめるために、腹を切って二心ないことを示さねばならないのだと、ワタクシ、考えます。

    現代人から見た時、そのなんと下らない理由かと思われる理由こそ、まさに「武士の一分」ではないのかと!

    「武士の一分」とは、まさに「一分」でありまして、他の価値観を持つ者からは「なぜそんなことのために?」と思われるけれども、「○○の一分」と表される○○で自らあらんと欲する時には絶対に譲れない、そういうものであろうと思われます。
    ですから、この主人公の「一分」が、「武士の」であるならば、それは妻の操などであっては絶対にならないと、この点を強く主張したいところでございます。
    「人としての」であるなら、当然にあり得るとは思いますが…。

    最後に念のため。
    以上書きましたことは、私が、この作品の主人公の「武士の一分」をただ妄想したものに過ぎません。従って、私自身の価値観とは一切何の関係もありませんし、もちろんこの妄想を誰かに押し付けるとか、正しいと固執する、などというものではございません。
    敢えて極端なことを書いてみたりしている部分もあります。
    叩くなり、賛同するなり、面白がって下さい。

  • ついでに言うと。。

    2006/12/26 by taru

    >「ヒューマニズムで可哀想だから殺すのはいけない」というのは現代のモラルで、現代劇ならそれもありですが、時代劇だとちょっと違和感があります。
    しかもこのシリアスな物語設定に於いては不似合いだと思います。

    「時代劇」と言っても2種類あり、歴史そのままを再現するものと、背景はある時代に設定しながらその中で追及しているのは現代劇と変わらないというものです。もちろんその両端の間にさまざまなバリエーションがありえますが、この映画もある歴史上の一点に時代を設定しているからと言って、その時代そのままである必要は何もないのです。例えば「7人の侍」で、百姓に雇われて村を守る侍がいるわけないだろうと思ってしまったらそれまでで、そういう侍もいたかもしれないと思って映画を見た方がはるかに面白いのです。映画は歴史の再現ドラマではないのですからね。

    私は、「ヒューマニズムで可哀想だから殺すのはいけない」などとこの映画の主題を言った覚えはないのですが、仮にこの映画が近代的なヒューマニズム的人間観で作られていたとしても、別にそれは何の問題もありません。そういう映画なんだと思うだけの話なのです。

    当たり前の話ですが、自分がこうあるべきだという固定観念で映画を見るのではなく、まず監督は何を描こうとしたのかを正確に理解することが必要なことなのです。

  • Re: 武士の一分とは……

    2006/12/26 by taru

    >>理屈屋さん

    妄想が過ぎます。。

    あなたの奥様、いらっしゃらなければ親しい異性のご友人、いらっしゃるなら愛○の方にご自分の妄想をお話になる勇気がおありでしょうか? (^▽^)

  • Re: 武士の一分とは……

    2006/12/26 by 無責任な傍観者

    山川きゅうりさん

    >私は、この映画を見て「恨み」とか「復讐」という言葉は不思議と出て来ませんでした。

    だとすると、何故木村は三津五郎と決闘したと思いますか?

    taruさん

    >人間としての本音の部分で許せないと思ったからこそ決闘を申し込んだのです。

    具体的に、何の理由で木村は三津五郎に決闘を申し込んだのでしょう?

    理屈屋さん

    >妻を寝取ったという、自分に対する侮辱に対する「武士の一分」がその理由

    で、決闘をしたんですね。

    無責任な傍観者としては、主人公のアイデンティティー再確認などともっともらしいことを言いながら

    >他にやることがなかったから

    としてみましょう。(ある意味当たっている気がする)


    >自分がこうあるべきだという固定観念で映画を見るのではなく、まず監督は何を描こうとしたのかを正確に理解することが必要なことなのです。

    私が言いたいのは、この映画において制作者が何を主題にしているのかを正確に伝えようとしていない、ということです。
    主題とストーリーはどのように関連しているのか?
    言いたいこと=主題の整合性がとれているのか?
    それが第一で、キムタクの大根は第二です。

  • Re: 武士の一分とは……

    2006/12/27 by taru

    >>無責任な傍観者さん

    >ここで言う『武士の一分』はいわゆる「恥」ですね。
    。。木村の場合は妻を他人に寝取られたという事実は武士としての名誉に関わるから、理由を言うのは勘弁してくれ。
    。。『武士の一分』で排除したかった不貞な妻の存在を最後に許したことは、自らの『武士の一分』を否定することである。

    「具体的に、何の理由で木村は三津五郎に決闘を申し込んだのでしょう?」と聞かれれば、映画のストーリーにある通り、「妻を他人に寝取られたという事実」以外にはありません。

    しかし、同じ出来事も軽く受け流す人もいれば、怒りを爆発させる人もいるし、対処不能になる人もいるように、それをどう受け取るかは人それぞれです。

    で、無責任な傍観者さんの仰るような「恥」とか「武士としての名誉」といった理由ではなく、もっと一人の人間としての譲れない怒りのようなものが決闘を申し込んだ理由なのだろうというのが、すでに説明申し上げている私の趣旨ですので、よろしくご理解ください。

    なお、新之丞は自分の妻のことを初めは「不貞な妻」と思ったことでしょうが、事情がはっきりするにつれて、「不貞な妻」を<許してやる>というのではなく、卑劣な人間に騙されたにすぎないと思うようになったのではないでしょうか。

  • taruさんへお返事+ちょっと

    2006/12/27 by 理屈屋

    taruさん、お返事ありがとうございます。
    何百年も前の、それも「武士」などという特殊な階級に属する人の「一分」を想像したので、ちょっと極端になってしまったかもしれないです。失礼を致しました。

    が、正直、その当時の武士が、(実際、でなく)「理念」として持っていた価値観ってそんな感じじゃないかなぁって、正直言って思っています。
    クドいですが、“その”「武士の一分」が素晴らしいと私自身思っているとか、私の価値観と同じだ、と主張しているワケではないのです。

    だから、
    > あなたの奥様、いらっしゃらなければ親しい異性のご友人、いらっしゃるなら愛○の方にご自分の妄想をお話になる勇気がおありでしょうか?
    と問われても、「もちろんできますよ」と言いたいところ、なのですが、なぜか「そんなことは間違ってもできっこな〜い!!」と、思ってしまうのは、どうしてなのでしょう?(恐わ)


    で、+ちょっとの話。

    > この映画に描かれている武士の一分とは一体何なのか。

    と、スレ主の山川きゅうりさんの提示した疑問に沿った形で議論をするのが良いのでは?と思います。と言いますのは、
    taruさんは、
    「この作品は現代的な感覚で見るという姿勢を持つべきではないか?」
    と、見る姿勢を要請すると思える主張をされていて、

    無責任な傍観者さんは、
    「「武士の一分」と言うからには、その当時の武士の一分を描くべき」
    と、飽くまでも作品に、歴史的事実を描くことを要求する主張をされている(歴史的事実を見るという姿勢を固持している)ようなので、一つのものを異なる立場から論じている形となってしまい、たぶん一定の結論に達し得ないのでは?という懸念を感じるのです。

    ここはいったん、そもそもスレ主の山川きゅうりさんの提示された、この作品において「武士の一分」とは何か?に焦点を定めて話し合い、互いの「武士の一分」観を理解、できれば統合してから、その「武士の一分」を主題とする作品とは、どのような作品でなければならないか?などと、議論が降りてくるような話運びをするというのが良さそうに思いますが、どうでしょうか。

    「武士の一分」とは何か?が分からないと、現代的価値観で受けとめるべきか、否か、結論が出ないと思います。
    ちなみに私は、現代的な見方をして、作品に大きな不満を感じてはいませんが、私の「武士の一分」観は先に書いた妄想の通りなので、「不満だ」という人の気持ちも、とても良く分かります。

  • Re: 武士の一分とは…… ネタバレ

    2006/12/27 by civaka

    三村が妻を離縁したのは、妻への怒りではなく、このままでは、また、不義を続ける可能性があったこと。妻がそこまでしていたのに、きづかなかった自分への怒り。だったのではないかと思います。

    決闘は人間としての倫理、道徳を犯す行為をした番頭に対しての制裁であり、自分自身の甘えへの制裁でもあったのではないかと思います。

    彼は妻の不義に対して怒っているわけではないと思います。

  • 話が逆です。。

    2006/12/28 by taru

    >>理屈屋さん

    >「武士の一分」とは何か?が分からないと、現代的価値観で受けとめるべきか、否か、結論が出ないと思います。

    ここは映画サイトなので、映画を見てあれこれの感想などを述べる場所ですよね。で、私は映画を見て、

    >彼がたまたま武士だったから「武士の一文」と言ったまでのことなのです。端的に言えば、「俺は許せんのです」ということなのです。

    と私の受け止め方を述べさせていただきました。スレ主の山川 きゅうりさんも、概ね私の解釈に賛同してくださいました。そして理屈屋さんも「私は、現代的な見方をして、作品に大きな不満を感じてはいません」と仰るのですから、作品の解釈として大体そういうことでよろしいのではないでしょうか。

    >私の「武士の一分」観は先に書いた妄想の通りなので、「不満だ」という人の気持ちも、とても良く分かります。

    というのは、単に自分(たち)のイメージする「武士の一文」が描かれてはいなかったというだけの話で、この映画はそういう映画ではないので残念でしたというだけのことなのです。(^▽^)

    >>civakaさん

    >彼は妻の不義に対して怒っているわけではないと思います。

    う〜む。。civakaさんは女性の方でしょうか?(笑) 男の女性に対する独占欲は結構強いものですから、妻の不義に対して、初めはやはり怒りはあったと思うのですよね。そういうことがうわさになっているらしいことに対する戸惑いとか困惑もあったことでしょう。しかし、

    >妻がそこまでしていたのに、きづかなかった自分への怒り。だったのではないかと思います。

    自業自得という言葉がありますが、食中毒で失明して、そこを付け入られて妻のみさおを奪われたのも、元はと言えば自分の責任でもありました。毒見役という自分の職務にいいかげんだったために、季節はずれの危ない食材を使っていたのにも気付かず、漫然と食べてしまった。それが上役の責任、或いは仕入れ係りの責任としても、毒見役として彼自身も不見識だったことは事実。

    妻がつらい立場に立たざるを得なかったのも、彼に原因がなかったとは言えない。その事も、彼は認めざるを得なかったことでしょう。

  • Re: 武士の一分とは……

    2006/12/28 by 無責任な傍観者

    >というのは、単に自分(たち)のイメージする「武士の一文」が描かれてはいなかったというだけの話で、

    わざわざ複数形にしているのは私も含まれるということでしょうか?
    誤解の無いように申し上げておきますと、私が不満なのはこの映画が質の悪い、レベルの低い作品であるからです。
    「武士の一分」が「私のイメージに合わない」のではなく、「整合性のある描き方になっていない」ということです。

    1)この時代の道徳観
    2)主人公は免許皆伝で肉体的にも精神的にも鍛練を積んだ人間である
    3)失明という人間としての主要能力を奪われた極限状態にいる
    この背景の元、劇中では「武士の一分」は
    木村は、その時点で唯一信頼できる人間である剣の師匠に「話すことが出来ない」
    三津五郎は、自分の立場を有利にすべき評定役にさえ「話すことが出来ない」
    つまり、「武士の一分」はこの物語では何らかの理由で自分の胸の内にしまっておかなければならない性質のモノです。
    で、この映画のタイトル=主題です。
    この作品に於いて主題の「武士の一分」はどのような位置づけにあるのか?
    敵味方でそれぞれ秘めなければならない「武士の一分」はどのような対比がされているのか?
    「使用前・使用後」の分岐点に於いて「武士の一分」はどのような役割を果たしたのか?
    これらがこの作品の中で全く描かれていないんですね。この作品の中で「武士の一分」は意味が無い。
    この作品に於いてタイトルにまでなった「武士の一分」とは主人公や脇役が発した何万語の中の「一つの単語」に過ぎません。

    例えば、菊池寛の「形」という短編時代小説は僅か文庫本見開き2頁の長さながら、起承転結にテーマの「形」の意味を明確に盛り込んでいます。
    しかるにこの作品は単に一つの物語を単純に「映像化」しただけで何のテーマ性もない。
    思わせぶりな「武士の一分」という「単語」をタイトルにしながらその中身は何もない。
    極限状態に置かれた達人の物語でありながら精神世界は描けていない。
    剣の達人が「死んでも良かった」「勝ってもバレたら切腹するつもりだった」と死を前提とした凄み、
    その後の死から生に転換したときの安らぎまでアイドル歌手に期待はしないが、方言ぐらいはまともに喋れよ。
    庄内弁キムタク風味ならまだしも、キムタク弁庄内風味は、正統派の時代劇ではあり得ません。
    いくら客寄せパンダのアイドル歌手とはいえ、山田監督も方言を使うドラマならキチンと方言指導をして欲しいモノです。
    その気がないなら標準語の物語にするか、広告代理店やマスコミ舞台の不倫・乱交何でも有りの現代劇にでもしたら?
    別の見方をすれば「毒味役○○の半生」とでもつければ良かったんですよ。
    ステレオタイプのチープなアイドル時代劇という位置づけであれば、素晴らしい出来の作品だと思いますよ。
    一般的な「キムタクかっこいい!」という意見に対して反対する気は全くありません。

    >スレ主の山川きゅうりさんの提示した疑問に沿った形で議論をするのが良いのでは?と思います。

    「武士の一分」について考えるのは以上の理由でちょっと難しいと想像しました。
    信頼する人間にも話すことが出来ない性質である事を満足させること、敵方の一分との関係を考えると途方もない労力が必要ではないかな?
    だから「武士の一分」の原因となった決闘の動機を問うてみたんですが、考えてみればどう進展するかは想像もつきませんね。

  • Re: 武士の一分とは……

    2007/01/05 by 未登録ユーザ‥ぱど

    不義をした妻のへの怒りは、妻そのものに向けられてもいるでしょうが、家の中も見えぬ自分の力不足への怒り、それに支えられねば生きられぬ境遇、武士としての対面、どれがというよりも、どれもコレもがイッセイに襲ってきたのだと思います。
    突然ではなく、叔母からの言葉、徳平を尾行させたこと、すでに答えは見えていたにも関わらず知りたがったのですから。


    この映画を傑作とは思っていませんが、こき下ろすほど駄作とも思えません。
    タイトルの『武士の一分』で一分が描かれぬからダメだというのもどうでしょうかねぇ・・・。
    目が見えていても見えぬもの、見えぬからこそ見えるものというテーマは明確に立ち上がってきます。
    明確に描かれぬということことこそ、テーマに沿っているとも思えませんか?

    そして、3部作と考えれば寄り見えるものがあると思われます。
    『たそがれ〜』では貧しさと忠、『隠し剣〜』では社会の恋愛倫理と正義といったものが軸にか置かれていました。
    ようするに、降りかかる社会的困難、試練にいかに決断し、行動するかでした。
    では、『武士の一分』では?
    夫婦と生きがいではないでしょうか?
    夫婦でなくてもいい。それは徳平の存在が示しています。
    誰かが誰かを思い、支えあうこと。
    自分がただ支えられている思えても、実は、そんな自分でさえ誰かを支えているということ。
    しかし、生きがいなくして人は生きられない。
    三村の生きがいは毒見役の頃でさえ、毒見役を辞めて、道場を開くこと。盲目となり、それがかなわなくなった時、彼は生きがいを失います。そして、皮肉なことに、島田との対決に見出す羽目になる。

    そして、彼はその対決とその結果によって学びます。
    武士の一分のもたらす空しさを。
    人が死ぬ時にいる悲しむ周りの人々のことを。
    (あのやかましい叔母でさえ)
    そして、気づく。暮らすことについてのささやかな喜びに。
    武士の一分で生きる死ぬと言って時には、見えなかったささやかな喜びを。

  • Re: 武士の一分とは……

    2007/01/05 by 無責任な傍観者

    >タイトルの『武士の一分』で一分が描かれぬからダメだというのもどうでしょうかねぇ・・・。

    テーマがキチンと描かれない作品は最低だと思います。
    もし仮にテーマが夫婦愛ならばそのような描き方をすべきですし、タイトルもそのように付けるべき。タイトルって映画の顔ですよ。

    考えれば考えるほど、制作者はこの映画を「良い作品にする気が全くなかった」であろうと思えてなりません。
    ・人気アイドル歌手の起用で、地方が舞台でありながら方言指導せず、「がんす」のような特徴ある言葉だけを組み入れイントネーションはそのままの中途半端な台詞回し。彼が「キムタク」としてそこにいて動いていれば良いかのよう。
    ・本編と全くリンクしていないタイトル
    ・全編を通じて地方である必要が全くない風景。
    ・何の変哲もない4コマ漫画的なストーリー
    つまり、人気アイドルを配して、宣伝を大量に流し、何か精神的なテーマを持ったが如きタイトルで高級そうに見せかける。
    中身のないお粗末な作品を、話題性・宣伝・見せかけだけで客を集めようとしているように見えます。中身を良くする意志がこの作品からは何も感じられません。

    もしも夫婦愛がテーマであれば、そのテーマにあった題材を、そのテーマにあった描き方をすべきだと思います。

    >目が見えていても見えぬもの、見えぬからこそ見えるものというテーマは明確に立ち上がってきます。

    この物語で夫婦愛を描こうとすると、主人公は盲目になる必要はあったんでしょうか?
    盲目だから分かったことってあったんでしょうか?
    心身ともに鍛錬を積んだ達人が盲目という極限状態に置かれて、日常の小さな幸せを感じるんですか?
    逆に冤罪か何かで窮地に立って、それを仇役が利用して話がふくらんで、最後は知恵を絞って打開、夫婦よりが戻ってハッピーエンド。の方が自然だと思います。

    >武士の一分で生きる死ぬと言って時には、見えなかったささやかな喜びを。

    主人公は、ささやかの喜びを盲目になる前に毎日感じています。それが盲目になって生死を云々したんです。で、決闘に勝利して元の生活に戻る。結局「武士の一分」って何?
    実に何の役割も果たしていないんです。
    彼は盲目になることで何を見たんでしょうか?
    「武士の一分」は彼にとって何だったんでしょうか?
    果たしてこの題材はこの夫婦愛というテーマに合っていたんでしょうか?

    >武士の一分のもたらす空しさ

    武士の一部とは? なぜ唯一信頼している恩師にも話せなかったんでしょうか?

    以前発言したように、実際の制作趣旨に添って、「客寄せパンダを使ったチープなアイドル時代劇」として公開したのであれば、私は高評価をしていると思います。
    また、方言を指導する気がないなら江戸を舞台にすれば?とも。
    「ひばりの狸御殿」のような名作もあることですし、その作品に合った売り出しをして欲しいモノです。
    「山田監督」というネームバリューを使った、イカサマ映画は勘弁して欲しいというのが私の正直な感想です。

  • Re: 武士の一分とは……

    2007/01/06 by 未登録ユーザ‥ぱど

    藤沢さんの意図とは違って、武士の一分という言葉に皮肉の意味をこめているのが、わかりませんか?
    島田の最期に対しての言葉とか、三村の行動とか、どちらかというと愚かさを立てている。
    それに映画で、武士の一分を言葉で言うのこそチープでしょ。
    良作を観てきているなら、分かると思うのですが・・・。

    >主人公は、ささやかの喜びを盲目になる前に毎日感じています。それが盲目になって生死を云々したんです。で、決闘に勝利して元の生活に戻る。結局「武士の一分」って何?
    実に何の役割も果たしていないんです。
    彼は盲目になることで何を見たんでしょうか?

    まさに、ご自分で書いてるじゃないですか。
    盲目になることで、生死の方へ向き、忘れてしまったささやかな日常の喜びを、取り戻していく話ですから。
    私も
    >>武士の一分で生きる死ぬと言って時には、見えなかったささやかな喜びを。
    と書いてますよ。

    このタイトルは明確に映画を表しています。
    この3部作すべて、戦いの空しさを描いてきました。
    当然、この作品でも。
    武士の一分で、戦いを挑むにしろ、あなたの言い分のように、同じようになぜ妻を許してやれないのかと。
    それこそ、社会制度に負けぬ強さではないのかと。
    『隠し剣〜』では、元武士が元下女に自ら結婚を申し込むという当時としては大胆な行動をしています。
    それと、『武士の一分』になる前のタイトルは『愛妻記』でした。
    アイドルで愛妻家として知られるキムタクの起用も有りな理由でしょう。

    無責任な傍観者さんが、武士に思い入れがあるために、受け入れられないだけなのではないでしょうか?
    映画の意図との読み違えはいただけませんが、だから嫌いというのは、個人の嗜好としてしょうがないと思われます。


    >心身ともに鍛錬を積んだ達人が盲目という極限状態に置かれて、日常の小さな幸せを感じるんですか?

    感じないんですか?
    達人ほど、そういうイメージはありますけどね。
    その前に、三村って達人なんですかね?
    なら、島田もそうなりますよね。
    達人でないから、苦しいのでしょう。
    心身ともに鍛えた達人同士の戦いで無いところに皮肉があるんであって。
    山田洋次がコメディ作家であることを忘れちゃいませんかね?


    あと、あの方言も庄内弁をベースにしてますが、オリジナルのものと『たそがれ〜』の時にも言及してます。
    だいたい、あなたが指摘してるそれって、三船敏郎も似たようなものでしたよ。
    スターの映画というのもあっていいんじゃないでしょうかねぇ。


    何の変哲も無いストーリーがいけないってのも不明だし。
    大いなるマンネリ、『男はつらいよ』の監督ですよ。
    時代劇でなら、それも一つの定型と言えるはずです。
    『水戸黄門』今もやってるわけですしね。

  • Re: 武士の一分とは……

    2007/01/07 by 無責任な傍観者

    >武士に思い入れがあるために、受け入れられないだけなのではないでしょうか?
    >映画の意図との読み違えはいただけませんが、

    ? 仰る意味がよく分かりません。
    例えば、この物語が「元々武士としての誇りに凝り固まった人物で、盲目になることによって妻への思いや日常のささやかの幸せに気付く」というのならば、‥ぱどさんの言うことも理解できますが、元々妻への思いやささやかの幸せを指向していた人物で、主人公を盲目にしたり「武士の一分」という言葉を喋らせてみたりは取って付けたような不自然さがあります。
    今まで武士が嫌で若隠居したがっていた人間が何故盲目になったとたん「武士の一分」になるんでしょうか?繰り返しますが、この作品における「武士の一分」は何の意味も持っていません。
    これは制作者が根本的にテーマについてのプロット/整合性やキャラクター設定を全く考慮していないからです。

    >だから嫌いというのは、個人の嗜好としてしょうがないと思われます。

    別の映画で「安易に障害者をネタにするのは許せない」と書きましたが、私がこの映画で単純な嗜好があるとすれば、まさしく
    >山田洋次がコメディ作家であることを忘れちゃいませんかね?
    のコメディの如く何の脈絡も必要性もなく主人公を盲目にしてしまったところでしょうか。もしも原作が「愛妻家で、武士と言う立場を嫌う武士が、盲目になったとたん何故か武士に目覚め、決闘が終わったとたん何故か愛妻家としての自分を取り戻す」というレベルの奇妙奇天烈な物語であれば、そんなクソみたいな原作を映画にすること自体が間違っています。
    仮にも「三部作」として選定するような原作であれば、原作はもう少しキチンとしているであろうと想像しますがね。

    >何の変哲も無いストーリーがいけないってのも不明だし
    単純なストーリーはテーマも明瞭にすべき。この映画はテーマが成り立っていないし、テーマを成り立たせるための意図も全くありません。

    >アイドルで愛妻家として知られるキムタクの起用も有りな理由でしょう。
    愛妻という割には、自分の生活保護のために口を利いてくれたと思っていた時には三津五郎を討とうとはせず、騙されたと知ったとたん討とうと決意するんですよね。
    で、妻を許したのは不倫相手が死んでからです。やることが無くなってマズい飯しか作れない下男と二人で暮らして行くと実感してからです。
    制作者の意図はどうあれ、この主人公の「行動」は打算が強く感じられます。
    だから、夫婦愛がテーマにしてもこの作品はテーマ性を成り立たせようとする意図が感じられません。
    単純性によりそのストーリー性が破綻を来すことはなくても、この作品はどこから見てもテーマ性が支離滅裂です。これは制作者の不真面目さ、作品に対する不誠実さに尽きると思います。

    >山田洋次がコメディ作家であることを忘れちゃいませんかね?
    ‥ぱどさんがこの作品を「客寄せパンダを使ったチープなアイドル時代劇」なんだからテーマ性を求めるのが間違っている、と主張するのであれば、
    >映画の意図との読み違えはいただけません
    というのは正しいでしょうし、盲目という身体的な障害を単に武士道を嘲笑する道具として利用するという制作者の安易な姿勢は私の「嗜好」に反するだけのモノなんでしょう。
    山田監督ももう大御所と言われるくらいにベテランなんですから、少しは大人としての分別をわきまえて、真面目に作品を作ってもらいたいです。

  • Re: 武士の一分とは……

    2007/01/07 by 未登録ユーザ‥ぱど

    >コメディの如く何の脈絡も必要性もなく主人公を盲目にしてしまったところでしょうか。もしも原作が「愛妻家で、武士と言う立場を嫌う武士が、盲目になったとたん何故か武士に目覚め、決闘が終わったとたん何故か愛妻家としての自分を取り戻す」というレベルの奇妙奇天烈な物語

    え、そういうものがたりでしょ。それがどうして、奇妙奇天烈なのか、理解に苦しみます。
    ただ、盲目になったから、突然ではないですけどね。
    その“何故か”にテーマが隠れている。
    明無責任な傍観者さんが、確なテーマがある種の偏向で、見えなくなっているだけではないでしょうかね?

    別に妻を許したのも、島田が死んだ後かどうかなんて、どうして決めつけられるのか?
    切り捨ててない時点で、すでに許しているとも見えます。

    出来がいいとは申しませんが、三部作できちんと筋を通したものを描いているのだけは、擁護しておきましょう。
    それは以前書いてありますので。

  • Re: 武士の一分とは……

    2007/01/07 by ekoeko

    私もひとこと。

    最下級の武士で
    しかも失明するわ、妻を寝取られるわ、
    踏んだり蹴ったり。
    しかし、それでも武士としての最後の精神的一線はあるんだ、
    それを「武士の一分」と呼んだんじゃないか、
    と思ったんですけど。

  • Re: 武士の一分とは……

    2007/01/07 by 無責任な傍観者

    ‥ぱどさん

    >そういうものがたりでしょ。それがどうして、奇妙奇天烈なのか、理解に苦しみます。

    たぶんこれを理解して頂けないとすると、話はずっと平行線になるんでしょう。

    ekoekoさん

    >それでも武士としての最後の精神的一線はあるんだ、
    >それを「武士の一分」と呼んだんじゃないか

    木村は苦境に陥っても精神的一線は残していた。同時に三津五郎は卑怯な生き方をしても精神的一線を残していた。
    で、この「精神的一線」が壇を迎え入れるまでの過程ででどのような意味を持っているか、どのような作用を木村の人生に与えたのか、というのがこの作品のテーマとなるんでしょうね。

  • Re: 武士の一分とは……

    2007/01/07 by 未登録ユーザ‥ぱど

    平行線というより、提示したからにはその奇妙奇天烈さの理由を説明出来ると思うんですけど。

    あと、妻のことをいかに思っていたかについてですが、島田が口ぞえするのを知る前から果し合いのための訓練は始めていましたし、果し合いに妻のたすきを鉢巻にしてもいます。
    妻の気持ちが分かるゆえに自分を許せないと言うのは、分かりませんかねぇ?

  • Re: 武士の一分とは……

    2007/01/07 by 無責任な傍観者

    >平行線というより、提示したからにはその奇妙奇天烈さの理由を説明出来ると思うんですけど。

    いや、物語として設定が不自然だと言うだけのことで、そのような奇妙な物語としての価値があると思えませんし、従って映画化する価値が無いと言うだけのことですから、「不自然」ということが理解できないのであれば説明のしようがありません。

    >島田が口ぞえするのを知る前から果し合いのための訓練は始めていましたし

    決意したのは真実を知ったからでしょ。

    >果し合いに妻のたすきを鉢巻にしてもいます

    これについては知りませんのでコメントのしようがありません。

    >妻の気持ちが分かるゆえに自分を許せないと言うのは、分かりませんかねぇ?

    私は妻の気持ちが云々よりも自暴自棄だと思うし、その方が自然だとも思いますが。
    まあ、別にテーマがそれでも良いんですし、他のテーマでも良いんですが、作品を通しての一貫性が無いと言っているんですが?
    「どのテーマにしても支離滅裂」だと。

    上記の通りこのまま続けても結論は出ないと思いますよ。
    続けるならそれでも構いませんが。

  • Re: 武士の一分とは……

    2007/01/08 by 未登録ユーザ‥ぱど

    奇妙奇天烈と書いておいて、不自然と言葉を変えるのですね。
    それに、私に理解出来ないのと、あなたがしおの不自然さを説明できないのとは関係が無いですよ。
    それに、その部分は、山田洋次では無く、藤沢周平の原作と同じですし・・・。

    妻のたすきを鉢巻にするのは映画の中でしっかりと描かれています。
    師匠の道場に行って、島田と果し合いをすると言った()ここで武士の一分ですとも言ってますね)のは、島田の口ぞえがなかったことを知る前ですよ。
    師匠に言ったのに、まだ果し合いを決意してなかったと?
    それに、自暴自棄の人間が剣の達人に話しだと観ているなら、そりゃ、奇妙奇天烈でしょう。
    サスガに、私も話を続ける気が失せました。
    どうも失礼。

  • Re: Re: 武士の一分とは……

    2007/07/16 by 未登録ユーザ同感者

    >養子イで時代劇をやれば、きっとそれは歌舞伎と同じように、
    >狭い世界に陥るだろうってことも分からないのだろうなぁ。
    >失くせとは言わないが。

    素晴らしい!

    。。。っと、私は監督の才能も歌舞伎の技力もありませんので、
    その例えの本当の意味はわかっていないかも知れないんですがw

    そもそも藤沢周平さんの本の魅力って何なんでしょう。

    非常に稚拙な表現であれですが、
    たしかに時代物の形はとっているけれども、例えば
    人々のちょっとしたやり取りの中に「うん、わかる、わかるよ」なところが見えたりするところとか

    いや実際、寝る前に眠気を誘おうかいなと、
    ごくごく軽い気持ちで読み始めたら、しかしたいがい夜中なんですなこれが

    。。。おっとこのスレじゃなかった。。。カハッ(00

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