武士の一分 (2006)
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ラストを観ての雑感
2008/07/05
by
黄金のキツネ
江戸時代の武士同士だから果たし合いとなってしまったが、もし現代だったら、どうすれば夫は自分の気持ちに踏ん切りをつけて、妻を赦す気持ちになれるのだろう。個人的な復讐はもちろん禁止されているし、裁判に勝ったところで夫婦の間には感情的なしこりが残ることもあるだろうし…。この問題にはなにか良い解決策はあるのだろうか。
でも考えてみると、「妻を赦す」という言葉自体がなんだかしっくりとこない。果たして主人公が行ったことは、妻(という個人)を赦したことになるんだろうか。
「俺はお前を赦す」と言うとき、赦すほうが赦されるほうよりも、身分上あるいは道徳上で一段と高い位置にいる雰囲気が漂う。この言葉には、「俺はお前を赦してやるんだぜ」、というある種の驕りや押し付けがましさが内在している。となるとその後に続く言葉は当然次のようになる。「赦したのだから俺のことをありがたく思え」、だ。
う〜ん、これではいけない。多分ダメだ。ただでさえ傷ついている者は相手の心情や言葉に敏感になっている。無意識ではあっても赦す側に相手を見下す気持ちがわずかでもあれば、それは言葉や態度を通じて確実に傷ついた者へと伝わってしまうだろう。だからこの表現では心の底から安心することは難しい。この映画が相手を見下したそのような表現で終わっていたのなら、本作のラストに感動することはなかったと思う。
しかしこのラストはいい。主人公の気持ちは率直だし、妻への愛情と慈しみと辛い思いをさせてすまなかったという気持ちであふれていた。
だから主人公は一段と高い位置から妻という一人の人間を赦したのではないのだ。彼は、いや彼ら夫婦は、自分たちに起こった不幸な出来事をそのまま事実として認め、その事実全体をもはや過ぎ去さったこととして心の底に納めたのだ。そうやって災難全体をともに赦しあえたからこそ、二人は絆をより深くすることができたのだろう。だからなのだ、後味がこれほどいいのは。
たぶん現代における夫婦間の問題の解決策もその線の上にしかないんじゃないだろうか。ただ現代は果たし合いにより夫が誇りを保つことができない分、気持ちに踏ん切りをつけるのは難しく、ある意味では武士の時代より厳しいのかもしれない。現代では道徳的な善悪の上に誇りの落ち着き先を求めるしかないのだろうが、どろどろした感情を理性や社会的通念の上に委ねなければならないのは、どう考えたって正直キツイ。それに道徳的価値がどこにあるのかさえ分かりにくくなっているのが今のご時世だ。この点に関しては赦してくれる神と契約ができる宗教のほうに、分があるような気がした。もっとも、「誇り」などという観念にこだわらないのであれば、解決はもっとも容易だろうが。
この作品では、「武士の一分」なる言葉が繰り返されていた。それを捨てきれなかった卑劣漢は勝負に負けても一命は取り留めたのに結局は死を選んだ。一方、それに対するこだわりを捨てることができた夫婦は幸せを掴むことができた。ここがポイントだね。原作は読んでいないが、とてもいい映画だった。
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