テラビシアにかける橋 (2007)
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雑感の覚書
2008/02/20
by
バチアタリ
少年が彼女の死を受け入れる姿が、このお話の本体である。
それまでのストーリーは魅力的であれ、素敵であれ、すべてが少年に背負わせる死の重さとしての枝葉である。死を効果的に現す為、失われる女の子を魅力的に描き、少年に罪の気持ちを背負わせ、喪失感を際立たせる。
少女が亡くなった後、追想も含め一切彼女が出てこない。これはある意味、死後の世界の否定であり「死ねばいなくなる」という現実を物語る(実際は肯定も否定もしていないが)。
少年の言葉に天国と地獄は出てくるが、それは単に少年の理解と行動原理の礎であるだけで、決して地の文では無い。映画における現実の世界で、彼女は無き者となる。
私たちが生きる現実と同様に。
そして少年は、彼女にもらった大切なものを理解し、彼女と同じ事を為す事によって、彼女の無い現実世界にも彼女が居ることを体現する。
見えてはいないがそこに居る。
それを為す事で。
思い出に逃げ込むのでは無くて、為す事で死を現実的に捉え昇華する。
テラビシアは天国ではないから彼女は居ない。
天国や地獄、現実ではない死後を描こうとした映画ではないから居ないのである。
そんな死後を描いてしまえば、死を誤魔化して=ファンタジーとして受止める事に他ならない。
あの時彼女は彼の中に居る。
この映画は敢えてそれを画として見せない。
彼女が使う力=道具として「想像力」を用いた事は、物語を一見矛盾を持った物に見せてしまうが「現実」と共存し得る「想像力」を表現する為に、あのラストに彼女は見えなかったのだろう。
いや、見ようとする人には見得る。
それが想像力なのだ。
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