酔いどれ天使 (1948)
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ポータブルDVDによる車内鑑賞レビュー
2008/04/12
by
マーク・レスター
今作の鑑賞ポイントとして、以下の2点に注目をしました。
【 @ 志村喬と三船敏郎のキャラクター付け 】
【 A 「ドブ沼」の存在意味 】
序盤では
【 @ 志村喬と三船敏郎のキャラクター付け 】
に興味を覚えました。
カッコよかったのですよ。 誰がって?
志村喬がとってもカッコよかったのです。
今作を鑑賞して、志村喬がギラギラしていることにとても大きな驚きを感じたのでした。実によく怒鳴って、よくケンカをする。まさに
「現役」バリバリ
のお姿を拝見することができるのです。
一方の三船敏郎も役者人生の中でこれが一番のはまり役だ!。と断言をしてしまうほどに素晴らしく、危険な香りを発散させて強烈な存在感を突きつけてくるのです。
往年の、ヒーローとしての安定感ではなく、アウトローとしての凄みにボクは魅了されてしまいました。
話を志村喬に戻します。
彼は永い間、ご隠居や、院長先生、ベテラン刑事、老侍、はたまた博士 という老成した役柄で、
「善」や「知」、「経験」と「人望」
というキーワードの上に確固たる世界を構築し、たとえ悪であっても、社会的地位の高い役どころを演じてきました。しかしそんな既存概念に反して、今作における志村喬演じる真田医師は、貧乏でアルコール中毒 (身を持ち崩した医者はあまねく
アル中 になる運命なのでしょうか? 西部劇の金字塔「駅馬車」にもブーンというアル中医師がいましたっけ)
いつもガミガミとやかましいカミナリ親父であったのです。
慣れ親しんだ「老成」のキャラクターであれば、例えば、攻撃的な言葉を浴びさせられた時には、穏やかな微笑みで返すか、腹黒い策略で陥いれるかになるのでしょうが、今作では、売られた喧嘩にはストレートに口汚く罵り返す、という
「即時・対等」 反応
を見せてくれるのです。
そのコミュニケショーン様式がそれまでの志村喬の既成概念を打ち破るものだったので、大いに驚き、そして
喜んでしまった
わけなのです。
既成概念を覆すと言ったら、志村喬と三船敏郎の関係性も、また然り。二人の関係となると、黒澤明監督の次回作となる「野良犬」で決定づけられた「師弟」というラインが印象深いのですが、今作はそんな上下関係など無く、1対1の対等な人間同士が、怒鳴りあい、なじり合い、ドツキ合いを経て、
魂と魂のぶつかり合いが
成されていることに、今までにない新鮮味を感じたのです。
黒澤作品において、今後、様々な関係性を築いていく二人ですが、最初の一歩が、こんなにも、なりふりかまわない体当たりの演技をぶつけ合っていたことに、大いに好感を持った次第でした。
しかし、中盤以降、ボクの興味の対象はもっぱら
【 A 「ドブ沼」 の存在意味 】
の1点に集約されていたのです。
「ドブ沼」 とはこの街にある、不衛生極まりない下水溜りのことで、今作の訴求点をヴィジュアル化した重要な場所であると思い、ボクが勝手に固有名詞化したものです。
その 「ドブ沼」 に、三船敏郎演じる新興ヤクザの松永が、むなしく佇むシーンが用意されていたのですが、彼の対岸で大量のゴミが 「ドブ沼」 に捨てられる映像が挿入されていたのです。
このカットは5秒ほどのものでしかないのですが、今作を読み進めていく上でのボクの大きな推進力となってくれました。
なぜならこの映像によって、この 「ドブ沼」 が市民生活や消費活動で生じる 「ゴミ」 や 「カス」 を日常的に捨てる遺棄場所であることを理解し、
「ドブ沼」 と 「遺棄」 の関係性
に気づくことができたからなのです。
そんな象徴的な場所に、結核を病み、女に厄介払いされ、兄貴分の岡田に利権を脅かされて四面楚歌の松永をわざわざ配置しているところから、松永の縄張りであるこの南新町マーケットという社会が、こんなにも凋落してしまった松永を今後、「見捨てる」方向に動くことを予感させていたのです。
終戦直後の 「裏の力」 による、支配的で強圧的な秩序の中で経済活動を営み、ささやかな利潤を得る商店主にとって、こんな有様の松永は牙を持たない狼であり、今度は、より強力な 「裏の力」 に成りうる岡田になびき、ひれ伏していくで あろうとの予感に満ちたシーンだったのです。
そう言えば松永がこの 「負」 の場所である 「ドブ沼」 に、黒澤監督によって佇まさせられたのは、今回で2回目であったと記憶しています。
1回目は彼の脅威や威力を削ぐキッカケとなる兄貴分の岡田との再開の場。商店からせしめた「花」という特権を不用意に 「ドブ沼」 に捨てる行為から彼の劇的な凋落が始まったことを考えると、
「ドブ沼」 と 「遺棄」 という関係
がこの1回目の時点で実は、提示されていたのです。
そして2回目の配置が松永の敗北を印象付けるこのシーンでの活用となるのです。しかも不用意に 「花」 を捨てるという曖昧な行為ではなく、リヤカーで
明確な 「捨てる」 という意志
を持って 「ドブ沼に」 投入されたものであることを考えると、1回目で暗示された権力の喪失どころの程度ではなく、松永がこの社会から遺棄・抹消される、ひいては彼の存在に関わる大きな問題となることを強く予感させていたのです。
そしてボクが主張しているようにこの 「ドブ沼」 が 「遺棄」 という行為の象徴的な場所であるとして捉えると 「ドブ沼」 のそのキワに位置する真田医師の診療所は、文字通り
“ミズギワ” で “セトギワ”
の再生施設という意味付けとしては、非常にわかりやすい設定であったことに気づきました。
終盤、結核に倒れた松永は 「裏の力」 の後ろ盾を失い、保持していた利権を全て岡田に奪われてしまいます。
日常的にせしめていた 「花」 にも等価交換という経済原理がはたらいて、30円という価格の支払いを要求されたことにより、松永の特権的地位が消滅したことを表現していました。
この30円という重みは松永が 「裏社会」 からも、そして南新町マーケットという 「市民社会」 からも
「裏の力」 の残り 「カス」
として捨て去られたことを端的に示していたのです。
それにしても松永の凋落ぶりは凄まじく、黒澤明という 「羅生門」 で墨汁の豪雨を延々と降らし続け、 「七人の侍」 で泥沼の中での決闘シーンを撮り続ける、尋常で無い、偏執狂的なパワーを持つこの人は、今作においては、あんなにもギラギラと光っていた松永をこんなにもボロボロになるまでに徹底的に貶めていくのです。
そして焦燥し切った松永のメークも黒澤監督らしい、偏執狂的な徹底ぶりが発揮されており、ここでも思わず苦笑いが出そうになりました。
この手法は晩年の 「乱」 における一文字秀虎のこれ見よがしなメークを想起させ、初期と晩年において表現上の嗜好が連鎖していたことを興味深く思ったのでした。
話題を 「ドブ沼」 に戻しましょう。今作のクライマックスである松永と岡田との死闘は
「遺棄」 を象徴し 「滅び」 を連想させる
「ドブ沼」 において行われたのです。
と言うのは嘘で、実際には岡田の情婦のアパートメントで展開されたのですが、僕の脳内で変換された事実としては、やはり 「ドブ沼」 においてこの決闘は行われていたのでした。
何故、このように認識をしたかと言うと、決闘の最中に改装用のペンキが床にぶちまかられるのですが、その様相が 「けがれ」 や 「遺棄」 という共通側面において、即席の 「ドブ沼」 がアパートメントの廊下に出現したと思えてしまったからなのです。
それによって、二人の決闘はこの急ごしらえの 「ドブ沼」 の上で行われることになった、と意固地なまでに強く認識してしまったのです。
しかも、その即席 「ドブ沼」 の生成原因となるペンキ缶を投げつけ、蹴つまづき、派手にぶちまけるのは他ではない、
松永本人によるものだったのです。生死を分かつこの局面において、自ら
「遺棄」を象徴し、「滅び」を連想させる
「ドブ沼」 を再現してしまうなんて、松永のこの決闘の結末を予感させるには充分な舞台設定となっていたのです。
本当の 「ドブ沼」 でのように足をとられながらの壮絶な戦いの末、松永は予見通り自分の命を 「遺棄」 してしまったのです。
最大の見せ場は 即席の 「ドブ沼」 という場所で展開させてきた黒澤監督ですが、今作のラスト・シーンこそは本当の「ドブ沼」 を舞台に選んできたのです。
ボクは松永の記憶を、 「遺棄」 を意味するこの 「ドブ沼」 に沈めることなどできようもなく、逆に、鮮烈な記憶として蘇らされてしまったのです。
何故なら、黒澤は “セトギワ” の再生施設で健康を取り戻した女学生を、よりによってこのラストシーンに配置してきたからで、これによって「病→生」というベクトルを持つ女学生とは極北の方向性を突っ走って行った松永の存在を強く再認識させられてしまったからなのです。
【居ないことによる「存在感」】
を 「生きる」 より遡ること4年。今作において、若き黒澤はしっかりと予行練習を行っていたのでした。
三船が、そして志村が、あんなにもギラギラとした魅力を持っていたなんて、そしてそれをこの1作で封印させられてしまっていたなんて。
そんな60年前の事実を、ボクは恨めしくも鮮烈に覚えておきたいと思ったのでした。
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