武士の一分 (2006)
»レビュー
映画 『武士の一分』 を観て
2007/12/31
by
ruro-t
劇場で観たわけではなく、テレビでの視聴だったので、感想などを述べる事は少々恐れ多いのだけれど(それほどに立派な作品だと感じた)、記しておきたいほどの感動があった。
観てつくづく思ったのは、映画とは、現実の時間の流れ、出来事の起こるさまが、スクリーンで現実と同様の感覚のもとに再現され、その瞬間を我々が発見する時に、一つの醍醐味があるのだと言う事。
現実のある瞬間、ある誰かにとって、一つの何かに対してのみ思いが集中していようと、状況は常に、目に入らない他の人物の動きや周囲の自然の現象と共に、複合的且つ混沌としながら、しかしそれをもって整合性あるものとして営まれている。本来、スクリーン上で起こる事も同じく、その場面に深い関連も無く進行しているものごとと同時に営まれてこそ、確かなリアリティをかもし出す。なぜなら、現実に起こる現象がそういうものだから。瞬間≠ニは、常に本人にとっての他者や自然の様々な現象と共にある。自身が動き、また喋るのと同時に進行して繰り広げられている現象も、我々が遠くに或いは近くに感じながら共に過ぎていく。それが日常だ。どこからかとも無く雨も降れば、風も吹き、人の声や物音がし、それを感じながら我々は生きている。
映画の一場面と言うものは時として、それを忘れて展開されてしまう事があるけれど、この作品は間違いなく、そうしたものがしっかりと息づき、観る者はそれを確かに感じ、その時、良質な映画のみがかもし出せる瞬間≠味わう事が出来る。そして、そこにあらわになる映画の瞬間の感動に胸を捉えられる。この映画は、そうした事が確かに味わえる上質の映画であったと思う。また、巧妙な笑い≠フ要素が、山田洋次の映画らしい瞬間の一つとして、少しずつ散りばめられている事も嬉しかった。
ここで自分は、山田洋次という人がやはり名匠であると言う事を再び感じ、映画そのものを確かに楽しむ事が出来た。観るべき映画は数多くあるけれども、この作品も、紛れもなく、その一つであったと思う。
主演の木村拓哉は、抑制の効いた演技で、役を押し付けがましくならない範囲で演じ、悪くなかったと思う。もっと、苦悩を激しく演じても良かったのでは、と感じないでもなかったが、大げさな危うい演技になるよりも、これはこれで良かったのではないかと言う気もした。
主人公は果し合いをするが、そこで何を得たか。その答えが、場面から静かに伝わってきて、この作品の精神に触れられた気がし、感銘を受けた。
また、挿入される音楽も映画の中で展開されるものとして絶妙に抑揚が使い分けられており素晴らしかった。
このレビューに対する評価はまだありません。
※ユーザー登録すると、レビューを評価できるようになります。
返信を投稿
Copyright©2008 USEN GROUP All Rights Reserved.










