善き人のためのソナタ (2006)
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芸術の力
2008/01/01
by
ika
レンタルDVDにて。
すみずみまで、「良心的」につくられた作品。
アルバトロスは、低予算SFかホラー……というイメージがありましたが……
この間見た「ドレスデン」と本作によって、私のそのイメージは、だいぶ変わりました。
「芸術の力」を描く(あるいは描こうとした)作品……ですね。
「芸術の力」は、不思議な作用を、人に及ぼします。
それは、日常生活から人を拉致し、自分でも、思ってもみなかったような不思議な行動をとらせたりもする。
ヴィースラー(国家保安省局員)の日々は、私たちから見るとかなり異常だが、それでも、彼にとっては、自分自身の確信と信念に基づいた「日常生活」だった。
それが…… ドライマン(劇作家)とクリスタ(女優)の生活を監視することにより、大きく外れていきます。
彼をそうさせたもの……それは、やはり 「芸術の力」だった。
「善き人のためのソナタ」……
ドライマン が奏でるこのピアノの調べは、転回のキーになるように描かれてはいますが、実は、 ドライマンとクリスタの発するすべてが、 ヴィースラーの心の奥に眠っていた「なにか」に点火し、彼は、今までの自分からは想像もつかなかったような、不思議な行動を重ねていくことになります。
社会主義国での抑圧の日々……だったから?
しかし、実は、そのことは、本質的なものではない。
ここを、どう感じるか……これは、この作品の評価の大きな別れ目になるでしょう。
ヴィースラーの心の変化は、たしかに、多くの方がご指摘のとおり、普通に考えれば「不自然」です。
この不自然さを、 社会主義国ゆえに……ということ(あるいは他の要因)で理解しようとすると、結局次々に矛盾が出てきて、ますます理解しずらくなります。(ゆえに、作品の評価は下がるでしょう)
しかし、 ヴィースラーの心の変化の根源が 「芸術の力」であった……と考えるとき……
体制云々は、背景の補助的要因となり、この作品の語ろうとするものは、一挙に普遍的な様相を帯びてまいります。
私は、後者、すなわち「芸術の力」の不可思議な「魔力」の方を、より強く感じた。
それは……たとえば、 ヴィースラーが娼婦によって、性欲を処理する、そのこととも似た要素はたしかに持っているが……
しかしまた、そういうものとは本質的に異なる、なにか人を高みへと誘う力も持っている……
あるいは……別の言い方をするなら、人の高みを目指す心に点火する力……といいますか、そういうものを持っています。
ただし……点火された人が、本当に高みに至れるのか、それとも没落に誘われるのか……
それは、また別の問題として生じてくるのですが。
かつて、ギリシアの賢人は、「真」、「善」、「美」の3つのイデアを語ったが……
「美」は、たしかに 「善」、 「真」へと通じていく道ではあるけれども……
その道を歩みとおしていくのは、なかなか大変なことでしょう。
ヴィースラーは、作品の中では、 「芸術の力」を受け取り、それに点火される役割として登場いたしますが……
ドライマンとクリスタは、対照的に、 「芸術の力」を発し、それによって多くの人を点火する側として登場する。
「美」の イデアを体現して、多くの人を、 「善」、 「真」へと誘う「道」そのものとしての役割です。
こういう役割においては、逆に、「不断の日常」ということが、極めて重要な要素となってまいります。
かつて、トーマス・マンは、「銀行家のように」小説を執筆するということを語りました。
また、彼の『ベニスに死す』の主人公アシェンバッハは、一日の一番大切な時間を日々執筆に捧げる勤勉な小説家として登場します。
こういうふうに、「作品」を生みだしていく基盤としての「確かな日常」が、 「芸術の力」を生み出す側においては、必要不可欠です。
よく「破綻」や「無頼」が、芸術家の特性のようにいわれたりするが……本当の芸術家というものは、けっしてそのような「日常」を望むものではありません。
そういう滅亡的な傾向性を自ら標榜する「芸術家」は、実はそういうスタイルに憧れているだけの偽物であると、私は思っています。
たとえば、ゴッホなんかでも、自ら望んであのような生活を送ったわけではなく、自分の芸術を追究するためには、作品が売れて、安定した日常を得られれば、それにこしたことはないと思っていたはずです。
彼は、自分の非妥協的な性格から、結局ああいう破滅的な人生になったけれど……彼自身は、ああいう生活は望んでいなかった。
作品を安定的に創造し続けていくためには、「安定した創作の場」が、絶対に必要になるからです。
映画に戻ると、結局、 ドライマンもクリスタも、さらにはこの作品に登場するいろいろな芸術家も……みな、そういう 「安定した創作の場」を求めて、周囲に対していろいろな画策を行う。
そして……ここでもまた、背景が社会主義なので、体制権力というものがクローズアップされてくるのですが……実は、これまた本質的なものではなく……創作を行おうとするものが、 「安定した創作の場」を求めて周囲に働きかける事情は、今の日本なんかでも全く同じことです。
そして……この作品における クリスタのように、 「安定した創作の場」を得るためには、日常の規範からすれば少々逸脱した行動でも、結局やってしまう……そういう点も、どんな体制の下でも共通して現れるものだと思います。
この作品における演出家のように、 「安定した創作の場」を得ることに失敗したものは、破滅せざるをえない……それもまた、普遍的な一つの運命でしょう。
したがって……この作品においては、「芸術の力」を、それを「受ける側」として ヴィースラーの行動を通じて描き、それを「発する側」としてドライマンとクリスタの生活を通じて描く……
そして、両者がないあわされ、「一つの運命」として収斂されていくところをドラマとして見せる……という、非常に巧みな方法をもって、「芸術の力」の一つの現れ方を描こうとしたもの……と思います。
そして……その意図は、かなりの程度、達成されている。
もし、作品中の描写が、わずかでも「体制批判」的な方向に振れすぎれば、この作品は、社会派的な印象が強くなって、肝心の 「芸術の力」を描くという面においては失敗作となったでしょう。
しかし……作品中では、その点に極めて抑制が効いていて、絶対にその方向に逸脱せずに、終始 「芸術の力」を描くという点に力を集中させている。
また、過剰に「芸術性」が溢れだすと、これまた安っぽい「芸術映画」になるところであるが、その点は、当時の東ドイツの厳しい体制というものをうまく使って、「芸術の力」が、感性だけに訴える表面的なものに逸脱していかないように厳しく統御しています。
そして……結果として、深層から人の心を動かすことのできる 「芸術の力」の本質を描くことに、ある程度成功しているように思いました。
ここで……私は、かつての東独で活躍した一人の指揮者のことを思い出します。
クルト・ケーゲル。
かつてのドレスデンフィルの主席指揮者。
しかし、彼は、その地位を失い、1990年、東西ドイツの統一直後にピストル自殺。
一説では、満足できる仕事の場が与えられなくなったことを悲観してのことであったとか。
まるで、この映画に出てくる演出家の生涯を見ているかのような……
私の手許には、彼の残した1枚のディスクがあります。
クルト・ケーゲル 指揮、J.S.バッハ『音楽の捧げもの』(ライプツィヒ放送交響楽団)。
バッハの 『音楽の捧げもの』は、さまざまな演奏バージョンを聴きましたが……
このケーゲル版のような「ものすごい」演奏には、出会ったことがなかった。
それは……グレン・グールドの、衝撃的な『ゴールドベルク変奏曲』にもたとえられるほどの……
1音1音がどこまでも澄み切っていて、表出は完全にクリアで迷いがなく、まさに、音そのものに生命を吹き込んだような演奏。
ここには、すでにいかなる「解釈」もなく、また「芸術」さえも消失しています。
こういう演奏が、できる人が、いたのだ……と、唖然といたしました。
ケーゲル氏の悲劇的な死については、詳細は知りません。
彼が、なにを思い、なにを感じ、どのように生きて、そして死んだのか……
それについては、まったくといっていいほどわからないし……またわかりたいという気もあまり起こりません。
ただ、私の前にあって、衝撃的な「音」がこめられた、この1枚のディスク。
そこには、まちがいなく「芸術の力」が、ある。
数十年の時を隔てて、はるかかなたの地で、1つの理念がほどけて音になり……
それが、1枚のディスクとなって、今、この地で、私の前にある。
それだけで、ほんとは十分な気がします。
「芸術の力」……
不思議なものですね。
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