惑星ソラリス (1972)
»レビュー
ソラリスの海の岸辺で
2007/08/23
by
ジャン≒ルーク
実を言うと、私は、
「この映画のレヴューは、とてもじゃないが、ボクにはかけない。」
と、思っていた。
自分は「SFオタク」でありながら、ホントは「読書」がキライ(あまりにキライでマンガも読まない)という、
とても「ハズカシイ」性格のモチヌシなのだが(sfオタクは、こういうヒケメヲ、もちがち、なのです)、
スタニスラフ・レム(あるいは、スタニスワフ・レム)などといったSF作家のナマエナド、
マスコミ的なプロの「映画評論家」でさえ、知るよしもない、という「現実」にさえ、きづけずにいた。
マスコミの「頑迷さ」にマドワサレずに、ただしい「満足度」を「加点」できるのは、
「世界中で、オレ、ひとりしかいない。」という妄想(イメージ・トレーニング)のもとに、
自由に、「レビュー」すればいいのであった。
さて。
SF作家スタニスラフ・レムは(ロシア人などではなく)、ポーランド人である。
ロシア(旧ソビエト)人のSF作家には、「超有名」なイワン・エフレーモフのほか、ストルガツキー兄弟(『神様はつらい』)や、古くは大「トルストイ」の本当の縁者アレクセイ・トルストイ(なんとカレのSF小説『アエリータ』は映画化も、されております。映画タイトルは知りません)など、「枚挙にイトマがない」のですが、ポーランド人で「世界的に有名な」SF作家は、カレ独りです。(ほら、もう誰のことだったかわからなくなったでしょ。)
しかしながら、これほど有名なポーランド人作家レムのSFは、一般の読者にかぎらず、一部のSFマニア(ボクはこの日本語のほうが、よっぽどイイと思うのだが、グローバル・スタンダード的にはNGワード)にとってさえ、実は「難解な小説」なのです。それは、「あまりにも文学的すぎて、エンタテイメントたりえなくなる」場合があるからです。
カレのもっともコメディックなSF『泰平ヨン』シリーズ(たぶん「世界的に」入手困難)をひもといてみると、それが非常によくわかります。
基本的に描かれていることは、主人公「泰平ヨン」の「航星日誌」(この手法は、なんと「スター・トレック」の原型)なのですが、「哲学的に」おもしろいのはこの「日誌」が、「古文書」として、とり扱われているところです。
このことは、「ワタシ」しかしらないカモしれません。
なぜなら、この作品が「古文書」だなどといっている「SF評論」は、読んだことがない、からです。SF評論家は、基本的に「古文書」がなにかを、知らない。
あまり脱線していても、「映画ファン」にとっては、無益なので、カレのSFの特徴を「一言で」申し上げておきましょう。
(これは「斬る」などという不真面目きわまりないものではなく、マジで今後「読む予定のない」ヒトにたいしての「ネタバレ」です。)
「科学」の「敗北」です。
そしてこのことは、原作小説『ソラリスの陽のもとで』にも、
色濃く、描かれています。
しかしこのことは、あまり詳しくお話しすることは、できません。なぜなら、それはそれこそ、「ネタバレ」になってしまうから。
非常に「ネタバレ」に留意して説明するならば、それは、以下のようになります。
惑星ソラリスには、あきらかに「知的生命体」がいます。しかし、このことは実は、長年「観測」されていた事実であったにもかかわらず、カレラがどういう「性質」の生命体なのか、「調査すれば調査するほど」わからなくなるのです。
レムは、この作品の続編を書く、などという「愚考」は、おかしませんでしたが、
映画人にとっては、その「愚考」のイミさえ、全く理解できないでしょう。
その生命体は、あきらかにわれわれとの「コンタクト」を求めています。
しかし、「人間」のがわが、どんなにガンバッテも、うまくいかない。
われわれが、いつまでも、「科学」に頼りっぱなし、だから。
こんなSFは、「アメリカSF」では「うけいれられません」。
で、あるがゆえに、「世界SF芸術として、貴重」なのです。
ここからは「私見」ですが、(ここまでの主張に「私見」がないなどという「傲慢な誤読」は、つつしむように)アンドレイ・タルコフスキーは、カレの小説の特質を(少なくともボク以上には)見抜いていました。
しかしながら、「科学の敗北」などということを真正面にすえて、「映画」を撮るのは「不可能」です。
そこで、ちょっとだけ、別のテーマにすりかえ、この「映画」を一般大衆的なものに、つくりかえました。
カレのテーマは、
「コミュニケーションの不可能性」です。
ワタシにはもう、これ以上、書くことができません。
書けば書くほど、どんどん「ネタバレ」になります。
結局のところ、それは「レビュー」ではなく、「果てしなくCMに近いコメント」に帰してしまうことでしょう。
このことを「私」は
「レビューの不可能性」と、呼称しています。
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Re: ソラリスの海の岸辺で
2007/08/24 by
浪花のロッキー
いつも楽しくレビュー拝見させていただいております。
ただ、あなたの示唆されるタルコフスキー像は
180度反対な気がしました。
かれはむしろコミュニケーションの可能性を
痛々しいまでに信じていた、あるいは切望していた
芸術家ではないでしょうか?
ゆえにタルコフスキー解釈による「ソラリス」
のラストはひじょうに感傷的で、原作者レムから
大いに不興を買いました。なぜならレムこそが
「コミュニケーションの不可能性」を
テーマに、このソラリスをはじめ、いくつもの
冷徹な作品を著わしてきた大家だからです。
おそらくJ=L・ゴダールさんは、それほどタルコフスキー
の作品をご覧になっていないのではないでしょうか。
彼の残した作品はわずか8本ほどです。この機会に
ぜひ楽しんでみてください。きっと新しい地平線が
拓けると思いますよ。 -
ソラリスの岸辺は「いつもは」存在しない
2007/08/24 by
ジャン≒ルーク
わたしの「ニホンゴ」は、常に正しくは、伝わりません。
わたしの意見と、あなたの意見は「ほとんど 同じ」です。
かれは「コミュニケーションの可能性」を強く「希求した」がために、
アンチ・テーゼとして「レムを利用したかった」のです。
それを「嫌った」レムが、
「全編ソラリスの島で物語を完結させる」というタルコフスキー案を、却下しました。
過去レスを読むかぎり、この程度の「ネタバレ」は許されると思いますが、
原作の物語構造上、「ソラリスの岸辺」はラストには「必要でした」が、
原作にカレの「妻」いがいの縁者は、
「まったく不要の長物」です。
記憶が薄れていますが、確か人物としては、登場していないのでは?
苦言めいた「ものイイ」は、今後できるだけ「つつしもう」とはおもいますが、あなたになら、こう伝えましょう。
「コミュニケーションの不可能性」をテーマにして「あらゆる文学者」は作品をなしえますし、それをレムもなしていますが、
「科学の不可能性」などという「大それた」テーマに常にたちむかうこどができるSF作家は、
ロシアやヨーロッパぐらいにしか、当分、あらわれないでしょう。
そしてハリウッド超大作『ソラリス』は、タルコフスキーほどにはレムの原作を認識できないままに、「コミュニケーションの不可能性」を強引に描いてしまった。
私はハリウッド版は「SF映画」などでは全くなく、
「ソープ・オペラ」だと「決め付ける」ことに
何の疑問も感じません。
それにわたしはレムの作品を「冷徹」ときめつけるのには
がまんがなりません。
最後に、新しい地平が開けることが「おうおうにして」苦い「重責」であることに、
「私」は気づいてしまっているのです。 -
Re: ソラリスの海の岸辺で
2007/08/24 by
はなよ
J=L・ゴダールさん、はじめまして
> 「科学」の「敗北」です。
この発言には深く同感です。
レムの作品に繰り返し表れるテーマであり、科学を神とするならば、神のいない世界を描いた、そのような印象をもっています。
レムの作品が「冷徹」といわれるのは、登場人物に感情移入したとき、レムの作品世界があまりに無慈悲で、人間がまさに神の目の小さな塵に過ぎないことを思い知らされるからではないでしょうか。
わたしは、このタルコフスキーのソラリスはあまり好きではありません。タルコフスキーは「妻」に色々語らせていますが、言葉で伝えられないものがある、もしくは、言葉にすると失われてしまうものがあるからです。(音楽はとても気に入ったのですが)
この映画は、レムの映画化としてみるか、タルコフスキー作品として見るかで評価は分かれると思っています。 -
Re: ソラリスの海の岸辺で
2007/08/24 by
はなよ
> タルコフスキーは、「妻」に色々語らせることによって
> そのことを「男性」も、きづくべきだ
> と、言おうとしたのではないでしょうか
なるほど
わたしは、このように考えたことがありませんでした。
この作品単体で受け止めてみればJ=L・ゴダールさんのご意見は、その通りかもしれませんね。
でもレムの世界に於いては「男」や「女」という文字・言葉の持つ生々しさはしっくりしないのです。
そして「男」と「女」という2元論に分けたとき「人間」の持つ何かが抜け落ちてしまいそうで怖くもあります。
レムを考えた時、いつも私は自閉して思考の海をさまよってしまいます。
それを、つたない語彙で他の方にわかるように説明することは非常に困難で途方にくれてしまいます。
それでも、たとえわずかでも理解し合えればという希望を捨てては生きてゆけません。
だから、こうやって書いているのだと思います。
余談ですが、「泰平ヨン」はお気楽で良かったです。
わたしはここで初めて「サイバネティックス」という言葉があることを知りました。
レムの作品は最近、何冊か再出版されていますので、また読み直してみようと思います。 -
ソラリスは「海」であってほしい
2007/08/24 by
ジャン≒ルーク
実はわたしは、レムの作品のそれほど多くを読んだわけではありません。
この場では、レムのことばかりかたっているわけにもいかないので、こういうことなのではないでしょうか。
レムは『ソラリスの陽のもとで』を、科学者の目から見て、執筆した。
一方で
タルコフスキーは『惑星ソラリス』を、ひとりの人間として、監督した。
ハリウッド版について、この場で言及するのは、やめときます。
愛着のわかない映画についてムリヤリ語るのは、無理ですから。 -
Re: ソラリスの海の岸辺で
2007/08/24 by
はなよ
あくまで感想なので結論を出す必要はありませんが
> レムは『ソラリスの陽のもとで』を、科学者の目から見て、執筆した。
> 一方で
> タルコフスキーは『惑星ソラリス』を、ひとりの人間として、監督した。
大筋において、賛同です。
すでに小説と映画という別の作品になっている以上は、過度な比較論も必要ないのかもしれません。
わたしは原作に気持ちが強すぎて映画を映画として観ていなかったのかなと、少し反省しました。機会があれば、この映画も新たな目線で見直してみたいものです。
ハリウッド版・・・わたしも、愛着はゼロです。観たけど中身は忘れちゃいました。 -
訂正
2007/08/24 by
ジャン≒ルーク
みずからの「スレタイ」につられてしまったようですが、
『ソラリスの陽のもとに』(ハヤカワ版)が正解。
ついでながら。
誰かさんと同じでやっぱりボクもホントは「レム」のことを語りたかったので、このヴァーチャル・スペースを借りるかたちで少々。
小説版『ソラリス』は、このタイトルで、別翻訳者・新訳が出ているのですね。
もともと別訳『ソラリス〜』の「〜」部分は「だれかさんの創作」なので、このほうがスッキリしてよいカモ。
ただし。
ボクはやっぱり『ソラリスの陽のもとに』のタイトルのほうが、文学的でスキです。 -
Re: ソラリスの海の岸辺で
2007/08/24 by
浪花のロッキー
申し訳ありませんが、J=L・ゴダールさんは
タルコフスキー全作品を一通りご覧になって、
レム作品も最低でもソラリス期の三部作くらいは
読まれてから論を進めた方がもう少し説得力のある
主張が展開できると思います。
大仰に使命か何かを背負ったかのごとき文章も、
結局ほとんど実像を知らないから、そういう
ポーズに走ってしまっているだけでしょう。
健闘を期待します。 -
Re: ソラリスの海の岸辺で
2007/08/24 by
ジャン≒ルーク
ありがとうございます。
しかしながら、ホントはあなたは私の
『誰かさんと同じで〜』というブンショウのみに「引っかかって」
そのような提案をしているのだという「ミモフタモナイ」事実にも当然、気づいています。
客観的に考えて、そんな「苦行」をしないと「レヴュー」できないのだとしたら、
「レビュワー」などというものは存在し得ないし、
タルコフスキーが「ソラリス期の三部作」などというものを「知っていた」という「証拠」すら、ありません。(当然、わたしも知りません。)
それは、イタズラに「レヴュー」のハードルをあげてしまう「苦言」にしか、
普通の人は考えず、
そういわれてあなたは、冒頭の私の本心から発した
「ありがとう」のコトバさえ、
イヤミとしか、認識できなくなるでしょう。
「男性」と「女性」のチガイは、まさにここにあり、
「男性」は「酒」のようなものがないと真に「熱い」ハナシはできず、
「女性」には「共感力」のみで延々と「井戸端会議」ができるのです。
しかし、動揺することはありません。
あなたは、イマ、非常に「あやうい状態におちいってしまった」などと思うことはさらさらなく、
「ゴダール」という最大の「理解者」をえた、と、
本心がどうであれ、「思い込めば」イイというダケなのです。
心からあなたが、「ジャン=ルーク」の名に恥じない
「人類の指導者」=「真の救世主」
に「成長」して、
もう「隠居」した私と
「ソラリス島」で『ハグ』しあえる日を、
期待しています。
本当にありがとう。 -
Re: ソラリスの海の岸辺で
2007/08/25 by
浪花のロッキー
冗談はやめてください。
SF好きを名乗っておいて、
あの三部作を知らないなんて…
あなたはSF好きではなく、
SF好きを詐称しているに過ぎません。
恥を知ってください。 -
Re: ソラリスの海の岸辺で
2007/08/25 by
ジャン≒ルーク
ご忠告、ありがとうございます。
しかしながら、一部の「人間」は、私たちのこのヤリトリを
独り芝居
だと「勘違い」しているのでは?
そのような特殊な状況下において、「正しい記憶力」が
保てると思いますか?
それとも私が「ソラリス人だ」とでもいおうものなら、
それを「ユーモア」と解す一部のものは、いるかもしれませんが(いて欲しくはないですが)
やっぱり「独り芝居だ」という思いは、
それが「現実的には、困難(不可能ではない、ところが、悩ましい)」だとしても、
免れないのでは?
アナタを苦しめる意図はまったくないので、
そのことを私は『惑星ソラリス』の作品論に「仮託」して申し述べます。
私がこの映画のテーマを「コミュニケーションの可能性」とはいわず、
「コミュニケーションの不可能性」と呼称したのには、ワケがあります。
『惑星ソラリス』としては「どっちであっても同じ」なのですが、
レムの『ソラリス』は、
「コミュニケーションの可能性」を「メイン・テーマ」にすえたとすると、SFではなくなってしまう。
レムの『ソラリス』の真価は、たぶん(これは決め付けではありません)、「SFファン」にしか「理解できません」。
いち「SFファン」として、私にはレムという「作家そのひと」が、「理解できた」のです。
これは、まさしくあなたの言う「新しい地平線」です。
このことは、私にとっては、「物理的に」
『タルコフスキーよりも、レムと、会って話がしたい。』
ということを意味します。
私のハナシが、おわかりですか? -
Re: ソラリスの海の岸辺で
2007/08/25 by
ジャン≒ルーク
ながながと「個人演説」をしていると「睡眠不足」になるので、
もう、言いたいことだけ「ひとりごと」のように言ってしまいます。
「コミュニケーション」というのは「話せばわかる」とは「違う」のです。
このことを「ほとんどの」SF作家はきづいていますが、
「マニアックな」SFファンは「ぼんやりとしか」理解できません。
そして「普通の人々は」「話せばわかる」と「勝手に思い込んでいます」。
そして「いちSFファン」の私は個人的に「コミュニケーション」などという「ちっぽけな」ものを描いたSFは、もうあまり「読みたくない」と、「本気で」思っています。
私がレムの「作家性」を
「科学の敗北」
と「断定」したのには、こんな「背景」があるのです。
あなたは、私がこんな「告白」をしたら、信じていただけますか?
以上のような「背景」から、わたしにとっては『ラスト・サムライ』は、どうでもイイので、まだ観てもいないし、当分、観る予定もない、
どうせそれは、『ブラック・レイン』の「焼き直し」だろうし、
自分は『ブラック・レイン』を、どうしても好きになれないから。
気にいらない映画を「ただ評判だから」といって観に行くというのは、「映画ファン」として「正しい行い」ですか?
まあ、いいでしょう。本当に「寝不足」になってしまいます。
結局のところそれは、「好きなものはスキ。キライなものはキライ。」という「本能」です。
それを「人間性」と呼ぶ人もいるでしょうが、私はそれを「本能」と呼ぶのがすきです。だって、それが「真理」だから。
わたしは「正しい」ことしか、すきになれません。「コミュニケーションの不成立」は「いつどこででも」起こりえます。なぜなら、それは「法則」だからです。それの「解消」にむけて「努力」することは、まあ、多少は必要ですが、そんな努力をしなくても、人間は、「生存可能」です。
そんなわけで「香港」「フィルム・ノワール」「バイオレンス」などといった「たわごと」をわたしは「毛嫌い」するのです。
こんな「思想」は、SFなどに興味がない「体育会系」のかたがたには、チンプンカンプンです。
SFファンにさえ、「作品」となってやっとわかる、という程度の「ざれごと」にすぎません。
「あたらしい地平」はいつまでも続きます。「永遠に」。
日本人は「愛」・「夢」といった「コトバ」が極端にスキです。「日本人?」と思うあなたには、英語を勉強してください、という風にしか、伝えることができません。
この『映画生活』のどこかに
「エターニティ・エターン」というコトバが隠されています。
私には、そのことばの意味が、正しく解りますが、あなたには、死ぬまでわからないでしょう。
恥じ入ることなど、ないのです。
「恥」などというのは「日本人の特性」です。
それは「菊」が「日本にしかない」のと「同じ」なのです。
さあ、もう「授業」はおしまいです。われわれは「等しく」眠らなければなりません。われわれは「草食動物」ではありません。眠らなくても、死にはしませんが、「覚醒」しつづけるのが、不可能なのです。
わたくしは、しかし、それもまた「可能」であることを知っています。
あるSF作家が教えてくれました。
ブライアン・W・オールディス。
『A.I.』の原作者です。 -
Re: ソラリスの海の岸辺で
2007/08/25 by
浪花のロッキー
まあJ=L・ゴダールさんのコメントは
いつものことなのでそっとしておいて、
私がJ=L・ゴダールさんの一人芝居の産物
ではない証拠をひとつ、書いておきますね。
これは今はJ=L・ゴダールを名乗る人が
恐ろしいテロリストであった頃でさえ、
書かれると「やめてください」とテロリスト
らしからぬ丁寧な言葉遣いで使用の中止を
求めてきたある言葉です。
wwwwwwwwwwwwwwwwwwww
現J=L・ゴダールさんはとにかくwが嫌いなのです。
そうですよね、J=L・ゴダールさん?www -
Re: ソラリスの海の岸辺で
2007/08/25 by
ジャン≒ルーク
もう寝ようと思っていたので、見過ごすところでした。
お答えします。
それは「日本語」ではありません。
そしてそのことは、それを使うかたにとっては、
「意味を知らない人には、なにを混ぜているのかわからない。」
ということを意味し
それが「コミュニケーションの不可能性」です。
修行をするのは、あなたです。
わたしの「手法」までアナタが「まねる」とは、思いませんでした。
このスレには、じつは、「独り」しか、いません。
「3人とも」「同一人物」です。
おやすみ。 -
Re: ソラリスの海の岸辺で
2007/08/26 by
ジャン≒ルーク
「ふたりとも」もう「ヤケクソ」です。
タルコフスキーさんよ、アンタつみつくりだねえ。
こんな「わかりにくい」名作を「政治的理由」で監督しておいて、
われわれ「日本人」には「解説」せず、「ロケ地」として、利用するなんて。
アンタがいま、いきてる のか
死んでるのかさえ、キョーミ ないけど、
アンタがしたことは、
アレハンドロ・ゴンザレス や
マリリン・モンロー や
リドリー・スコット と
「ケッカ」だけからみれば
「同じ」だぜ。
ひょっとしてアンタ、「不眠症」?
なら、全てを許す。
ジャン=ルークも、ハヤクネル
ように。
「そういうものだ。」
『屠殺場5号』
カート・ヴォネガット・ジュニア 著(早川書房)入手「超」困難 -
Re: ソラリスの海の岸辺で
2007/08/26 by
ジャン≒ルーク
ジャン=ルーク くん。
やっぱり、まだおきてたんだね。
わかった。この『映画』と関係あるかどうか、わかんないけど、
誰も気にしないから
お聞きします。
SF超大作『大日本人』と
芸術的名作『華氏911』と
アンタ、どっちがスキなんだい? -
Re: ソラリスの海の岸辺で
2007/08/26 by
浪花のロッキー
ひとつだけ訂正させてください。
私のHNは微妙にジャン=ルークではありません。
ところでご質問の件ですが、どっちも嫌い、と
いうのも答としてはありですか? -
Re: ソラリスの海の岸辺で
2007/08/26 by
ジャン≒ルーク
もちろんです。
それが「ゲンロンノ自由」であります。
ここにいる「論者」は、だれもそのことがわかっていない。
そういう「頑迷な」「オタク」には、
「ブラッドベリでも読んでみれば?」
というふうに「評価」するしか、
「救いようがない」
相手が「いやだ」というなら
『神様はつらい』だけでも、読みなさい。というだけです。
当然わたしも、読んでないけど。
「きょーみ」はあります。 -
Re: ソラリスの海の岸辺で
2007/09/24 by
u
何じゃ こりゃ 場違いだな
イデオロギーの違いか
解釈の違いか
読む気にもならん -
差分機構
2007/09/30 by
ジャン≒ルーク
あたりまえです。
「宇宙」が、ちがうのですから。
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