007 ドクター・ノオ (1962)
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007シリーズの原点は・・・
2003/02/03
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Mの隠し玉
記念すべき007シリーズ第1作目。【注1】
さすがに製作後40年を経過したエンタティンメントとしての老朽化はかくせませんが、後続の007シリーズの基本的なスケルトンはほとんどこの初作に見ることが出来ると云っていいでしょう。連続する活劇場面、美女とよろしき戯れ、爆破される秘密基地、そして世界の破滅を画策する悪の仇敵から危機を救う主人公ジェームズ・ボンド。
「先刻承知」は含んでのうえで、このヒーローのプロフィ−ルをおさらいすると、
・英国国防省配下の諜報機関SISはダブルO課に勤務する国家公務員。
・もっぱら要人暗殺と破壊工作を主とする”女王陛下の任務”内であれば
国家から殺人御免のお墨付きを与えられた男。
(007はこのライセンスの認証番号だ。)
・どんな困難な任務も軽口たたきながら涼しい顔でこなして見せる有能な
エージェント。
・しかもオシゴト中でも美女に出会えば、敵、味方の区別なくこれを抱き放題。
もちろんギャンブルにもお強いヒトも羨むプレイボーイ。
etc.
このキャラクタ−を創造したのは原作者イアン・フレミングですが、これを映画化するに特にそのプレイボーイたる特質を際立たせ、また任務遂行に当ってそのスーパー・マンぶりが一層強化されたのは当然となりゆきでありました。原作のボンドは直面した事件の過酷さゆえに長く精神的なダメージに悩まされる(”007号は二度死ぬ”)と云った人間的な弱さも見せるのに、スクリーンにショーン・コネリーの姿を借りて登場したジェームズ・ボンドは、ひたすら”正義”と云う名の本能的な快楽を求めてワキ目を振らず行動するヒローで、そのなによりのユニークさは「世界を救うと云う任務を達成する歓び」が「美女【注2】やギャンブルや大人のオモチャの如き新兵器【注3】を操るお楽しみ」と全く対等に、いやその内に当然含まれるべき一部であるかのように取り扱われたことでした。”正義”を行使するのに「苦悩する精神」や「懐疑する心」の不在はもとよりで、ピューリタンなモラルや紳士的なお行儀良さえタナ上げして、ひたすら本能的な行動の快楽としてつき進むヒロー像は娯楽活劇の推進装置としてシリーズ発足当時これほど痛快無比な存在はなかったのです。
一方、ジャマイカのプライベート・アイランドに強力な電波を発信する基地を持ち、アメリカの宇宙ロケットの軌道を狂わせようと画策する怪人物ドクター・ノォ。歴代の007の仇役には印象的な人物は多いですが、ジョセフ・ワイズマンが扮したこの人物を越える存在は今だ登場していないと云っていいでしょう。
妨害電波を発するのになぜ核エネルギーが必要か、その理屈は良く分らん【注4】のですが、なにしろたいへんな原子力フェチ。捕虜にしたボンドを饗宴に招いたその席で、放射能のため失ったと云う両腕の義手を自慢気に見せびらかしつつ、もの静かな口調で滔々と世界征服の野望をのたまうこの人物には、その知性の裏に隠れた劣等感と洗練された物腰に秘めれらた残忍さ、そして自ら押さえきれぬ誇大妄想が絵に書いたようにくっきりと浮かび出て鮮烈な印象でありました。登場場面は意外に少ないのですがフレミングの原作をも越え、この人物の存在こそ以降のシリーズに於ける悪役の色合いを決定的にしたのでした。
40年も昔、それ迄になかったこんな斬新なスタイルのヒーローと悪玉が対決する映画エンタティンメントが世界的大ブームを起こしたのはかくも当然のなりゆきでした。【注5】
しかし、この1作目は表面的にはそんな事は予想だにしてないと云わんばかりのごく当たり前の冒険活劇仕立て。ストーリィ展開も原作にほぼ忠実で人物設定だけが上に記した様な映画向けの色付けがなされているだけ。製作サイドとしても、時あたかも評判が立ち始めた”フレミングの新趣向冒険小説”の勢いに便乗し多少の収益を計上出来ればそれで良しと考えたのか、演出にはB級スレスレの活劇映画に実績のあったテレンス・ヤングを据え、主演には運動神経はズバ抜けているもののヤマ出しの大根役者ショーン・コネリーを迎えたヌル〜イ製作体制。でもそんな肩の力の抜き具合がこの一品を、近ごろのピカピカの最新作よりずっとお気楽に楽しめる007映画にしています。ヤング演出のキビキビとした画面展開とそれに同調するかようにスクリ−ンを機敏な動きで満たすコネリーの存在がウェル・メイドな活劇を生み出したことは云うまでもありません。ドクター・ノォの基地内に監禁されたボンドが換気ダクトを伝わってエッチラ・オッチラと脱出する場面の素朴なサスペンスとスリルとそして、ほんの微かな巧らざるユ−モア【注6】にこそ、投稿者の内なる007シリ−ズの原点があるのでした。
製作側が世の007ブームなるもの意識し出したのは3作目の”ゴールド・フィンガー”('64)からでしょうか。その後、どんなアイテムでも世界的ブームなるものが人々の間につくり出す安直で軽薄な固定観念に、このシリーズが飲み込まれてしまうのに長い時間はかかりませんでした。”ゴールド・フィンガー”以降の数作はまだ冒険活劇としても面白さを保っていたシリーズは、10作目の”私が愛したスパイ”('77)あたりから完全に開き直り、別の作品スレでも指摘した様に貧相な自己パロディを繰り返す自虐的活劇コメディへと変貌していったのです。もちろん、それをもエンタティンメントとして楽しむ観客が多数存在することな否定出来できません。現に最新20作目【未見】もいままでになく好調な興行成績を収めているとのこと。かつて颯爽と輝いていた(かのように見えた)ヒローぶりもいまや完全に時代から剥離したジェームズ・ボンドのアナクロぶりを、スポンサーの商標がやたら跋扈する打ち上げ花火のようなアクション場面と一緒に笑い飛ばすのも、またひとつの映画の観方ではあるのですが・・・。
それにしても40余年、奇跡のように続いたシリーズもいいかげんに幕引き時かも知れません。第1作目への原点回帰はもはや夢のまた夢。いまのように20世紀のアナクロ・ヒローとしてお笑いのうちに生き残るのも決して健康的ではありますまい。例えば光学フィルムが映画の媒体として消え果つる時、007 ジェームズ・ボンドはスクリ−ンでどのような活躍をしているのでしょうか。
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【注1】1963年の日本初公開時の邦題は”007は殺しの番号”。原題直訳の今のタイトルはリバイバル公開時に改題されたものですが、オリジナル邦題の方が内容ピッタシかも。
【注2】第1作目のヒロインはウルスラ・アンドレス。その名が示すとおり出演場面の大半を「服なし(ビキニ・スタイル)」で登場(笑)。結構な体型をたっぷりと楽しませるも投稿者のお好みにはいまひとつ。同じパターンでビキニ・スタイルの出づっぱりは5作目”007は二度死ぬ”('67)の浜美枝嬢でした。
【注3】第1作目はいわゆる新兵器なるものがほとんど登場しません。この映画の印象がスッキリしているのもそんな処にありか。
【注4】ハッキリしませんが原作ではドクター・ノォが自分の島に人を寄せつけないために放射能をバラまいている・・・と云った設定だったかも。いずれにしても随分と乱暴なハナシです。
【注5】第1作目はそれなりにヒットしたのですが、製作側はその後の世界的大騒ぎを察していなかったフシあり。だからこそ異色の2作目の”ロシアより愛をこめて”('63)があれほどの傑作になったのかも。一方、ものの本では世界的ブームの火付役のはこの2作目の出来の良さだったと云う説もあります。
【注6】アレ、アレ、 換気ダクトだったはずなのに、どこからともなく排水みたいのがジョロジョロ流れ込んで来てボンドを悩ませる。こんなスットボケ、もちろん嫌いではありません。
【1962年 イギリス テレンス・ヤング監督】
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