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		<title>『リベリオン』新着情報</title>
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		<description>『リベリオン』に関するニュース・懸賞情報・クチコミ情報を「映画生活」よりお届けします</description>
		<dc:date>2008-09-06T04:05:24+09:00</dc:date>
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	<item rdf:about="http://www.eigaseikatu.com/imp/3541/366055/">
		<title>[レビュー]好きな人は好き ★★★★☆</title>
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		<description>
		非常に見てて楽しい映画
流れるようなアクションシーンだけでも見る価値ありです。
最初に見るときは何も考えずに見るのがオススメ

いいＢ級映画です。
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		<dc:subject>レビュー</dc:subject>
		<dc:date>2008-05-25</dc:date>
	</item>
	<item rdf:about="http://www.eigaseikatu.com/imp/3541/326387/">
		<title>[レビュー]微妙に納得行かない。 ★★★</title>
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		ガン=カタ以外価値ないです。ハッキリ言うと。
でもまぁ格好良いアクションなのは否定しませんし、
最後の接近戦が一番インパクトあったので60点献上。

微妙に納得いかないのはガン=カタってものを理屈がらみで紹介するなら、銃を扱う人間が…それも複数の人間がお互いの火線上に立ったりしないことくらい押さえときましょうよ。この映画に出てくる敵さん、全てのシーンで同士討ち確定の立ち位置なのでいくらなんでもあれは無い。
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		<dc:subject>レビュー</dc:subject>
		<dc:date>2008-02-05</dc:date>
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	<item rdf:about="http://www.eigaseikatu.com/imp/3541/306860/">
		<title>[レビュー]ガン＝カタ見るために見る ★★★★</title>
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		いろいろ、細かい設定はあるようにみえるが、結局、アクションであるところのガン＝カタの美しさを体験するための映画だと思う。

そういう意味で、シナリオは、あんまり気にする要素ではないが、アクションだけで100点つけるわけにもいかないのでこの点数。
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		<dc:subject>レビュー</dc:subject>
		<dc:date>2007-11-27</dc:date>
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	<item rdf:about="http://www.eigaseikatu.com/imp/3541/303129/">
		<title>[レビュー]そうか、ガン=カタだったのか ★★★★☆</title>
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		<description>
		ガン＝カタ。
こいつは最大の見せ場であり、最大の突っ込みどころでもある。
あらゆるアクション映画の主人公は、本能的にガン=カタを身に付けていたのだ。だからランボーには弾が当たらないのだ。
大きな謎が解けた気がした。
		</description>
		<dc:subject>レビュー</dc:subject>
		<dc:date>2007-11-12</dc:date>
	</item>
	<item rdf:about="http://www.eigaseikatu.com/imp/3541/267117/">
		<title>[質問議論]equilibriumへの返信: equilibrium&amp;#65535;&amp;#65535;（その３）</title>
		<link>http://www.eigaseikatu.com/imp/3541/267117/</link>
		<description>
		
この作品の最後の方で、ウソ発見器でしたか、主人公がなんか機械にかけられて、いろんな感情のグラフが波打って描かれる場面がありました。
ところが……そのグラフが、一斉に、ピタッと水平になる。まったく揺れのない直線状態になってしまいます。
それを横で見ていたオジサンが、「やや、これはまずい」とかなんとか、つぶやく。その瞬間、主人公の最後の立ち回りがはじまる……という印象的なシーン……

このシーン、まさにequilibriumそのものですよね。
心の水面のすべての波が静まり……鏡のように水平になる……
無、原点、ゼロ……であり、上の引用で、ヘリゲルさんが伝えていた境地でもあります。

普通、攻撃モードというと、全身から攻撃オーラが照出されます。不動明王のように、怒りの炎で満たされた……といいますか……。
でも、この映画では、攻撃モードはまったく逆で、すべての気が自身のうちに収束されて、存在すら感知できない＜無＞の状態になってしまいます。
そこにいるのに見えない……ということでしょうか。

なんで主人公には弾があたらないの？ということですが……すべての気が収束されてしまうと、姿は見えていても、ヒットしない、あたらない状態というのが出現しても不思議ではないように思う。
逆に、主人公は、自分自身の＜気＞にも、もはや邪魔されることなく、すべてがクリアーに見通せる＜中心＞にいるので……対象自体がもはや自身のうちにとりこまれてしまっている……と申しますか、そういう位置から自在に攻撃を制御できるのでしょう。
もはやそこには……一切の攻撃衝動はなく、攻撃も、それは＜最小限必要な手続き＞として、着実にこなされていく実務……であるかのようにすら、感じます。

こういうところから考えると、この映画の主人公は、薬なんぞを使わなくても、実は自在に感情をコントロールできる人だったみたいですね。
彼にとっては、薬を注射していようがいまいが、そんなことはホントは関係なかったんだ……と思います。
同様に、敵のボスもそうだったんでしょうね。最後で、主人公と互角にわたりあっていたところを見ると、彼も、自分の気を自在にコントロールする術は身につけていた……ということでしょう。

ですから……この映画においては、やはり２重の欺瞞があると思います。
まず一つは、支配者側は、大衆に一切の感情を禁じておきながら、自分たちにはそれをしなかった……つまり、自分たちは、鍛錬によって自分の気を自在にコントロールできるので、強制的にコントロールされる必要はない……しかるに、一般大衆においてはそのような鍛錬は望むべくもないから、薬で強制的にコントロールしてやるのだ……と。これは、作品中において、支配層が大衆を支配する際の欺瞞として最後に暴かれます。

ところが……もう一つの欺瞞は、作品自体の骨格に入っていて作品自体を成立させている根源のところにかかわってくるので、見通すのも、解き明かすのも大変困難です。
主人公は、最初の同僚（ショーン・ビーン）が、摘発現場からイエイツの詩集をそっとポケットに入れて持ち出したのを見て、彼に対して疑いの心を抱く……という設定です。
結局、主人公は彼を殺し……そのことが、主人公の心が少しずつ解放されていく一つの端緒として描かれます。
そして、主人公は、後に自分も同じ行為を行い……それを見つけた新たな同僚に疑いを持たれる……という設定。

私は、ここのところに……この映画の第２の欺瞞、つまり、筋書きからは隠された方の欺瞞の萌しをかすかに感じました。
最初に書いたように、主人公も、敵方も、すべての感情を自在にコントロールできる訓練を積んでいたとするなら……当然、同じ職にあった最初に殺された同僚も、そういう訓練を積んでいた状態にあったと考えられる。
要するに、彼らの間では、薬なんかに関係なく、みなそういう能力を持っていたわけであり、そのことも彼らの間では実は公知であった……と考えられます。（自分がそうならあいつもそうだということは当然わかりますからね）

そうなりますと……この映画を観客に見せていく際に、観客のエモーションをコントロールしていくための大きな要素となっている＜主人公の自由への目覚め＞ということが……それ自体が、実は大きな欺瞞である……と、そのように見えてくるのです。

主人公の最初の同僚の苦悩……それが、主人公を目覚めへと導く大きなきっかけとなる＜文化への哀惜＞……それさえも欺瞞であったなら……それは、この映画を支えていた一番太い支柱が崩れる……ということになりますから、この映画の存在の根源自体が一種の誤謬と申しますか、虚妄にすぎなかった……ということになってしまいます。

この点は……実は、この作品を見ている最中から、かすかな違和感となって私の頭の中に萌し……見ているうちに、「どうも良くわからんなあ……」という思いにまでなっていったのですが……見終わって、いろいろ考えているうちに、「やや、これはもしかしたら、作品の成立の根源にかかわる欺瞞じゃなかろうか」……ということになったのでした。

しかし……さらに考えてみると、私のその「欺瞞じゃないの？」という思いが……実は、頭で考えられたものであって、自分の心の方は、この作品の展開の流れを、やっぱり素直に受け入れているんだ……ということがわかってきました。
そうなると……これは当然のことですが、誤りは「頭の考え」の方にあり、「心の思い」の方が真実を伝えるものですから（これはどんなケースでも必ずそうなので）、問題は、その「頭の考え」の方の、どこが間違っているのか……さらにいうなら、間違っているというよりは、「何が足りないのか」……その点に絞られてくるわけです。

私が、ここで、どうしても気になるのが、先に引用したオイゲン・ヘリゲルさんの著書にある弓の先生、阿波研造氏の、「まあ私たちは、的の前では仏陀の前に頭を下げる時と同じ気持ちになろうではありませんか」という言葉です。
なにか、この言葉のうちには……先にあげた私の「頭の考え」と「心の思い」のギャップを解消してくれるような力があるように感じられる……

そして、それが、実は、個人の心のうちにあるequilibriumと、ヘーゲルが精神現象学でとりあげているような社会的側面としての equilibrium（むろんヘーゲルはこの言葉は使っていませんが）を結びつけるカギになっているような気がします。

主人公も敵側も、最初に殺された同僚も……みな、自分の心の中での equilibriumを実現する力は持っていました。
しかるに、敵ボスは、そういう鍛錬を経ていない一般大衆には、そういうコントロールは無理だから、薬の力で強制的に……と考えた。つまりは、 equilibriumの個的側面を、一気に社会的側面へと拡大しようとした……少なくとも、この映画の中の設定ではそうなっているように感じられます。

これに対し、主人公の方は、映画の中では、コントロールを打破して少しずつ感情に目覚めていく……ということなのだけれども……
実は、主人公が目覚めていくのは、単なる個人の感情ではなくて、＜人類の文化＞というより包摂的なランクからの呼びかけ……であったような気がいたします。

ここで、 equilibriumという概念の持つ社会的な側面が、おおいに問題になってくるわけですね。
先に引用したヘーゲルのいささか過激な発言にあるように、 equilibriumの社会的な実現においては、その理念に忠実に考えれば、＜個の消滅＞といいますか、あらゆる＜個＞が、実質的に、他の＜個＞とまったく同じものとなったとき……はじめてその状態が可能になる……人類に、いっさいの争いが存在しない＜恒久平和＞が訪れるものなのでしょう。

この映画の中では、支配者側は、律儀に、実直に、その状態を実現しようとするのですが（しかし自らは薬を打たないという欺瞞を伴いつつ）……この映画は、結局、その方向には可能性を見いだせないよ……ということをいいたいのだと思います。
これは……映画的な展開の必然性（反抗のカッコ良さ）にかなりの部分を覆い隠されてしまうので、映画の理念形成としては、その点、かなり損をしているように感じますが……しかし、先に述べたような、この映画の＜第２の欺瞞＞の部分までを考えに入れますと、やはりこの作品の根底において……作品自体の展開で消費されてしまう部分以上に、世界に向かってそのことを言いたい……というのは明確にあるように感じます。

また……そのことの積極的な理解として、＜人類の文化＞的な視点があるのではとさきほど述べましたが……この点も、冒頭にダ・ヴィンチのモナ・リザを焼いたりする＜わかりやすい＞場面をもってきたために、かなりの部分が作品内での展開要素として消費されてしまい、その点、だいぶ損をしてしまったように思われますが……でも、そういう＜作品内事情＞を越えて、やはりこの＜人類の文化＞という呼びかけは、確実な普遍性をもって見る人の心に届けられているような気がします。

昨年見た映画で、「トゥモローワールド」というのがありましたが……この「リベリオン」は、 「トゥモローワールド」に較べますとずっとエンタテイメントぽくつくってありますけれど……基盤にある＜呼びかけ＞には似たものを感じました。

さてさて……エクイリブリウム……これは、とにかくムツカシイことでございます。
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		<dc:subject>質問議論</dc:subject>
		<dc:date>2007-05-19</dc:date>
	</item>
	<item rdf:about="http://www.eigaseikatu.com/imp/3541/266929/">
		<title>[質問議論]equilibriumへの返信: equilibrium（その2）</title>
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		<description>
		エクイリブリウムという言葉の、社会的な側面に関しての引用は以上のとおりですが……つぎに、また、この言葉の個的な側面に戻って、面白い文献を紹介させていただきたいと思います。

レビュー欄の方に、「マトリックス」とこの作品の、「動きの違い」について少し書かせていただきました。

要約すれば……「マトリックス」における動きは、常に気の流れが身体をとりまいているアイドリング状態……であるのに対し……
本作の動きは、すべての気が主人公の身体に吸いこまれてゼロになったところから、必要最小限の動きが放出される……というものでした。
この本作の動きに関して、示唆的な文献がありますので、これを紹介させていただきたいと思いました。

オイゲン・ヘリゲル著『日本の弓術』（柴田治三郎訳・岩波文庫）

著者のオイゲン・ヘリゲルさんは、その名前からもわかるようにドイツ人で、大正末期に来日して東北帝国大学の哲学と古典語学の教師になった方だそうですが、ご自身は、マイスター・エックハルトの神秘思想なんかに興味を持ち、その関連で日本の禅に惹かれ……来日の動機も、日本の禅や神秘思想をより深く学びたいというところが大きかったようです。

来日した彼は、ある人の「体術から入ったほうがいいよ」というすすめにしたがって弓術を習うことにし、阿波研造という弓の達人の門下生になって、かなり熱心に稽古を積んだとのことです。

ところが……いくら練習しても、阿波先生からオーケーが出ません。それどころか、先生は、今までの彼の頭にある常識とは正反対のことばかりを要求してくるように思える。
「弓術はスポーツではない。したがってこれで筋肉を発達させるなどということのためにあるものではない。あなたは弓を腕の力で引いてはいけない。心で引くこと、つまり筋肉をすっかり弛めて力を抜いて引くことを学ばねばならない」
と、こんな調子です。

彼の頭の中には、目的に至るまでの過程を細かく分析して、それをレッスンによって一つ一つ克服して望みの結果を得るに至る……という西洋流の……と申しますか、今ではもう世界標準になりつつある考え方が根強くあって、どうしても無意識にその方向でやろうとするのですが、阿波先生の指導はことごとく彼のその考え方を打ち砕くもので、彼は次第にわけがわからなくなる……そして、もう自分には、この弓術の真髄はわからないのだ……という心境に陥っていくのです。

まあ、その過程でいろいろあるのですが、興味のある方はお読みいただくとして（文庫本100ページくらいできわめて読みやすい）、一気にクライマックスの部分に飛びましょう。

（以下引用）

このようにして四年の後、先生は私たちにいよいよ最後の課題を与えるべきだと認める日が来た。それは的を射ることである。（中略）私はさっそく、的に中てるには弓をどう持てばいいかを尋ねたことは言うまでもない。「的はどうでも構わないから、これまでと同様に射なさい」と先生は答えられた。

私は中てるとなればどうしても狙わないわけにいかないと返した。すると先生は声をはげまして「いや、その狙うということがいけない。的のことも、中てることも、その他どんなことも考えてはならない。弓を引いて、矢が離れるまで待っていなさい。他のことはすべて成るがままにしておくのです」と答えられた。

そう言って先生は弓を執り、引き絞って射放した。矢は的のまん中にとまっていた。それから先生は私に向かって言われた。……「私のやり方をよく視ていましたか。仏陀が瞑想にふけっている絵にあるように、私が目をほとんど閉じていたのを、あなたは見ましたか。私は的が次第にぼやけて見えるほど目を閉じる。すると的は私の方へ近づいて来るように思われる。そうしてそれは私と一体になる。これは心を深く凝らさなければ達せられないことである。」

「的が私と一体になるならば、それは私が仏陀と一体になることを意味する。そして私が仏陀と一体になれば、矢は有と非有の不動の中心に、したがってまた的の中心に在ることになる。矢が中心に在る……これをわれわれの目覚めた意識をもって解釈すれば、矢は中心から出て中心に入るのである。それゆえあなたは的を狙わずに自分自身を狙いなさい。するとあなたはあなた自身と仏陀と的とを同時に射中てます」

……私は先生の言われた通りにやってみようと試みた。しかし言われたことの幾分かしかできなかった。的をまったく視野から去ること、したがって狙いを定めるのを諦めるということは、私にはどうしてもできなかった。それにもかかわらず私の矢はあらぬ方へ飛んで行き、的には一向に中たらなかった。それが私には悲しかった。以前小銃や拳銃の射撃をやったことがあるので、やはり「命中弾」を数える癖がついていたのではないか。それがおそらく自分でも気がつかずに、私のうちに残ってはたらいていたのであろう。

いくら熱心に稽古をしても、悲しいことには的には中たらなかった。先生は私が焦るのを難じた。……「中てようと気を揉んではいけない。それでは＜精神的＞に射ることを、いつまで経っても学ぶことができない。あれこれと試してみて、なるべく多数の矢が少なくとも的の枠の中に来るようにする弓の持ち方を考え出すのはたやすいことである。あなたがもしそんな＜技巧家＞になるつもりなら、私というこの＜精神的＞な弓術の先生は、実際に必要がなくなるでしょう」……先生はこう言って私を戒めた。

（中略）

そこである日先生を訪れて、自分にはこの狙わずに中てるということが理解も習得もできないわけを申し述べた。先生はまず私を宥（なだ）めようとした。しかし自分にはできないという意識が、私の心に深く食いこんでいたので、私たちの話はなかなかうまく進まなかった。すると先生はついに、私の行き悩みは単に不信のせいだと明言した。

……「的を狙わずに射中てることができるということを、あなたは承服しようとしない。それならばあなたを助けて先へ進ませるには、最後の手段があるだけである。それはあまり使いたくない手ではあるが」……そして先生は私に、その夜あらためて訪問するようにと言われた。

九時ごろ私は先生の家へ伺った。私は先生のところへ通された。先生は私を招じて腰かけさせたまま、顧みなかった。しばらくしてから先生は立ちあがり、ついて来るようにと目配せした。私たちは先生の家の横にある広い道場に入った。先生は編針のように細長い一本の蚊取線香に火をともして、それを&amp;amp;#22428;（あずち）の中ほどにある的の前の砂に立てた。

それから私たちは射る場所へ来た。先生は光をまともに受けて立っているので、まばゆいほど明るく見える。しかし的はまっ暗なところにあり、蚊取線香の微かに光る一点は非常に小さいので、なかなかそのありかが分からないくらいである。先生は先刻から一語も発せずに、自分の弓と二本の矢を執った。第一の矢が射られた。発止（はっし）という音で、命中したことが分かった。第二の矢も音を立てて打ちこまれた。

先生は私を促して、射られた二本の矢をあらためさせた。第一の矢はみごと的のまん中に立ち、第二の矢は第一の矢の筈（はず）に中たってそれを二つに割いていた。

私はそれを元の場所へ持って来た。先生はそれを見て考えこんでいたが、やがて次のように言われた。……「私はこの道場で三十年も稽古をしていて暗い時でも的がどの辺にあるかは分かっているはずだから、一本目の矢が的のまん中に中たったのはさほど見事な出来ばえでもないと、あなたは考えられるであろう。それだけならばいかにももっともかも知れない。しかし二本目の矢はどう見られるか。」

「これは＜私＞から出たのでもなければ、＜私＞が中てたのでもない。そこで、こんな暗さで一体狙うことができるものか、よく考えてごらんなさい。それでもまだあなたは、狙わずには中てられぬと言い張られるか。まあ私たちは、的の前では仏陀の前に頭を下げる時と同じ気持ちになろうではありませんか」……

（引用おわり）

エクイリブリウム……これは、やっぱりムツカシイことでございます。
		</description>
		<dc:subject>質問議論</dc:subject>
		<dc:date>2007-05-18</dc:date>
	</item>
	<item rdf:about="http://www.eigaseikatu.com/imp/3541/266361/">
		<title>[質問議論]equilibrium</title>
		<link>http://www.eigaseikatu.com/imp/3541/266361/</link>
		<description>
		
この言葉のもう一つの側面についてですが……（以下、レビュー欄の「鏡の心」の続きです）それは、あえていえば、社会的側面……ということになるのかもしれません。

ヘーゲルの「精神現象学」の中に、まさにこの言葉の意味を述べているようなところがありますので、ちょっと引用させてください。（引用は、長谷川宏さんの訳です。長谷川訳は、ここまでやって委員会？というような過激な意訳ですが、他の方の訳にくらべるとダントツにわかりやすいです）

（以下引用）

純粋な洞察がそれ自体でどんなものかは、すでに見たとおりである。信仰が精神を神としてゆるぎなく純粋に意識するのにたいして、純粋な洞察は精神を自己として意識する。つまり、純粋な洞察は世界の本質を神としてとらえるのではなく、絶対の自己としてとらえるのだ。したがって、純粋な洞察は、自己意識を離れて独立に存在する一切を、現実の存在であれ、理念としての存在であれ、残らず破棄し、それらを概念に変えてしまう。純粋な洞察は、理性が自己を意識するところに真理の一切があるという確信をもつだけでなく、確信の正しさを認識してもいるのである。

が、純粋な洞察がどういうものかは知られているが、それはいまだこの世に実現されてはいない。したがって、その意識はある個人のうちにたまたまそういう意識がある、というかたちでしかあらわれず、その本質をなすものは、実現を待たれる目的としてそこにある。

純粋洞察をめざす意識は、まずもって、純粋な洞察を広めよう……現実の一切を概念化し、その概念をすべての自己意識のうちに浸透させよう……という意図をもつ。この意図は、純粋な洞察を内容とする以上、意図として純粋なものだし、洞察も、対象と対立することなく、また、みずからなにかに縛られることもない絶対の概念だけを内容とする以上、これまた純粋である。

概念がなにものにも縛られないというのは、直接に二つの面からいえることで、一つは、すべての対象が自己意識の浸透したものとしてそこにあるということ、もう一つは、自己意識が一般的な自己意識であって、すべての自己意識が純粋な洞察の所有者だということである。

万人が純粋な洞察をもつように、という第二の意図は、対象としてある精神のちがいや、精神世界の構成要素や諸部分が、そしてまた、うまれもっての特性としてあらわれるちがいやが、教養世界のなかで意味のないものになるというかたちで実現される。

天賦の才や能力や特殊技能が、現実世界でそれなりに意味をもつのは、現実世界に「精神の動物王国」の側面が残っていて、人びとが、暴力的な抗争や混乱のなかで、たがいにだましあいながら現実の支配権を得ようとしているかぎりのことである。

抗争や混乱のうちにあらわれるちがいは立派なものではないし、個人が非現実の「価値あるもの」に満足することもなければ、特殊な利害や自分の目的に固執するわけにもいかず、だれもがその価値を認めるような教養人となることによってはじめて、個人に社会的な価値があたえられる。そして、そのとき、個人間のさまざまなちがいは、エネルギーの大小に……本質的な意味をもたぬ大きさのちがいに……帰着する。が、この最終的なちがいは、まったき支離滅裂な意識のなかで絶対の質的なちがいに転化する、というかたちで消えていく。

絶対の質的なちがいにおいては、自我に対立する他者が自我そのものなのだ。他者が自我であるというこの無限判断においては、自我に生得の一面性や特殊性はすべて消しさられ、自己は純粋な自己として、同じ自己を対象としていることを自覚している。自己と対象が絶対に同等であるような、そういう場において純粋な洞察はなりたつのだ。

したがって、純粋な洞察とは、整合性をもってどこまでも広がる単純な働きであり、人びとの共同の力で作られ、人びとに共有されるものである。こうした単純な共同体精神に浸る自己意識は、すべての対象のうちに自分が個としてそこにあり、個としての行為をそこに刻みつけていると感じるし、逆に、そう感じる個人は、他とわけへだてられることのない普遍的な個人である。……かくて、この純粋な洞察が精神の声となってすべての意識に呼びかける。「お前たちすべてに備わる理性をわがものとせよ」、と。

（引用おわり・なお、以上の文章に多出する「純粋な洞察」という言葉は、原文だとライネ　アインジヒト、英訳だとピュア・インサイトとなっています）

これ、まったくエクイリブリウムの世界ですよ……（発音的にはイクイリブリウムの方が正しい？）人々が、感情や欲望など、心をざわつかせるいろいろな要素から離れて、その心の理性の部分だけに純粋化されていくと、こういう世界になるんでしょうね……すなわち、「個の消滅」です。

ヘーゲルのこの文章では、明らかにカントの「純粋理性」が意識されていると思いますが、ヘーゲルは、いささか過激に、純粋理性を徹底すれば、こんな世界になるんだぞーと言っているように思えます。そして……その世界を、薬の力で実現しようとしているのが、すなわちこの映画のエクイリブリウムの世界……ということになるんだと思います。

確かに、戦争のない世界を実現しようとするなら……感情や欲望などの「精神の動物王国」的な雑多な要素を滅却して「純粋理性」のみに純化していくしかないのではないか……と考えるのは道理でありますが……しかし、ここで、ヘーゲルが鋭いなーと思うのは、「純粋な洞察は精神を自己として意識する。」という一言ですね……

たしかに、いわれてみるとそうなんですね……「普遍性」をめざすにもかかわらず、それは、精神を「自己」として意識する……がゆえに、問題は、どこまでも「自己」と「他者」から離れられない……。結局、「自己」と「他者」の相違点を無限に潰していって、最後に「自己」＝「他者」となるところで完結する……この映画でも、「戦争のない世界」の実現をめざすリーダーが、結局「独裁者」とならざるをえないのは……そこに、根本的な原因があるんじゃないか……と感じます。

ヘーゲルさん、さすがに良く見ていますよ……と同時に、この映画を作った人も……。現実の歴史では、マルキシズムがこれに近い理念で一時期多くの人の心に浸透しましたが……やっぱり結局挫折してしまいました。その根本原因は、やはり精神を「自己」として意識する……ここから出発せざるをえない……というところにあったのでしょうね。

結局、エクイリブリウムという考え方が、個人の内面に作用している限りにおいては、それは、一種の「個人的な悟り」のようなものであって……それは、結局「個人の生き方」を出るものじゃないわけです。しかし、一旦それを、個人を越えて社会に敷衍しようとすると……それは、やっぱり結局は「収拾のつかない混乱」に陥っていかざるをえないのかもしれません。

おしゃかさんが悟りを開いたときにエピソードですが……彼は、この悟りを、人に語るべきかどうか迷った……と。ようするに、語っても正しく伝わるのかどうか……ということですよね。それで迷っていると、天輪上王でしたか……が現れて、「いや、そういわずに、ぜひ語って広めてくださいよー」とお願いした。それで、おしゃかさんも「よっしゃ！それなら……」ということで布教がはじまった……とききます。

それが、良かったのか悪かったのか……だれにもわからんことでしょうが……でも、おしゃかさんの迷いは、明らかに上記の点にあったのでしょうね……

エクイリブリウム……これは、ムツカシイことでございます。
		</description>
		<dc:subject>質問議論</dc:subject>
		<dc:date>2007-05-15</dc:date>
	</item>
	<item rdf:about="http://www.eigaseikatu.com/imp/3541/266181/">
		<title>[レビュー]鏡の水面 ★★★★</title>
		<link>http://www.eigaseikatu.com/imp/3541/266181/</link>
		<description>
		見ましたー（ＤＶＤレンタル）

たくさんの方が書いておられるように、私もマトリックスの亜流かな……と思ってましたので、今まで見る気が起こりませんでしたが……「ウルトラヴァイオレット」の前の作品だということを知ったので、見てみました。

結果は……
「もっとはやく見れば良かった！」
です。

本質において、マトリックスとは全く違うところから作られた映画です。
むろん、似ている部分も多いのですが……でも、それは、ふつうのオオカミとオーストラリアにいるフクロオオカミの類似のようなもので、まあ表面的といって良いものでしょう。

全体を見終わっての印象……
ネコ科の動物のみたい……と思いました。
ネコとか、その親玉？のライオンとかは、いつでもベタッと寝ころんで、リラックスしているけれど……なにかあると瞬間的に、すごいスピードで反応する……
そんな感じです。

つまり、ものすごーく静かな部分と……ものすごーく激しい部分の動きのコントラストが極端。
これは、私の知る限り、今まであまり見たことのないパターンですね（昔の日本映画には多いのかもしれないけれど、あんまり見てませんので……）

たとえば、マトリックスなんかだと、しょっちゅう動きまわっているじゃないですか。
まあ、常にアイドリング状態と申しますか……
身体のまわりを、常に「気の流れ」が取り巻いている……って感じですね。
でも……本作においては、そこが全然違います。

「気の流れ」がすうっと主人公の身体に吸いこまれて……そこで、主人公は、完全に無、ゼロの状態になる……
と、次の瞬間、必要最小限の動きが放出されて、相手が倒される。
放出される動きのベクトルは極めて正確で、方向、速さ、そして強さのいずれにおいても所望の結果を得るための最小限の数値に完璧に制御されています。
あ、これが、日本の武道の基本かもしれないな……と感じました。
こういう動きができる基本は、すべての「気」を一旦完全に自分の中に納めてゼロになる……そういうことができるからだと思います。
つまりは、「完全な静」が「完璧な動」をつくりだすのですね……。

この映画は、邦題は「リベリオン」ですが、原題は「エクイリブリウムequilibrium」というそうですね。
この言葉、極めて意味深で、いくつかの意味がありますが……そのうちの一つは、この完璧なまでの「静」の状態を表していると思います。

波立つ水面……しかし、その波が少しずつおさまってきて……やがてピタッと静止し、水面は完全な鏡となる……
私たちの心は、いつもいろんな情報や感情や欲望に掻きたてられる、ざわざわと波立つ水面のようなものですが……そのコントロールに成功した人は、完全に静止した鏡のような水面の心を得られるのでしょう。
エクイリブリウム……とは、その状態をいうものと思います。

そして、この言葉のもう一つの側面……
それも、とても面白いのですが……ネタばれにつながりますので、作品別の方で……
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		<dc:subject>レビュー</dc:subject>
		<dc:date>2007-05-14</dc:date>
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	<item rdf:about="http://www.eigaseikatu.com/imp/3541/266208/">
		<title>[レビュー]鏡の水面 ★★★★への返信: すみません！訂正です</title>
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		「ネコ科の動物のみたい……」→誤
「ネコ科の動物みたい……」→正
です……

あわてものなので……何回みなおしても、どこかが間違っています。お恥ずかしいです……
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		<dc:subject>レビュー</dc:subject>
		<dc:date>2007-05-14</dc:date>
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	<item rdf:about="http://www.eigaseikatu.com/imp/3541/241659/">
		<title>[レビュー]クリスチャン・ベール ★★★★☆</title>
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		ガン・カタのアクションシーンはとても上手く作られていると思いました。感情を失った状態から取り戻すまでの変化を演じる役は
クリスチャン・ベールにははまり役だったですね。
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		<dc:subject>レビュー</dc:subject>
		<dc:date>2007-01-04</dc:date>
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