エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜 (2007)
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USENより
命の限り歌って愛して愛された悔いなき人生
1915年にパリのベルヴィルで生まれたエディットは幼くして両親と生き別れ、祖母が営む娼館に身を寄せる。一度は失明したものの奇跡的に回復し、後に大道芸人の父に引き取られ、日銭を稼ぐためにストリートで歌っているところを、名門クラブのオーナー、ルイ・ルプレに認められ、その歌声から“ピアフ(雀)”と名づけられる。やがて世界的なスター歌手となった彼女は生涯最愛の恋人マルセルと出会うのだった…。
低く力強くしゃがれたユニークな声が魅力のピアフを、「愛の讚歌」「バラ色の人生」など名曲オンパレードの迫真の歌唱シーンも最晩年の老婆に成り果てた姿も、全身全霊を傾けて『世界でいちばん不運で幸せな私』のマリオン・コティヤールが演じ切る。貧しく孤独な子ども時代から47歳で死に至るまで、その波乱万丈の生涯には、エマニュエル・セニエが好演する娼婦ティティーヌをはじめ、必ず愛してくれる人がいた。常に愛されたいと切望し、また愛することにも貪欲だった彼女の感情面に注目して、その生き様をドラマティックに描いたのは、『クリムゾン・リバー2/黙示録の天使たち』の監督オリヴィエ・ダアン。脚本も手がけている。
ユーザーより
「少し疲れたみたい・・・。」
1959年12月13日、ドルー。公演中のエディット(43)の歌は所々声がかすれたり音程を外したりで、およそ聴くに耐えないものだった。とうとう曲を最後まで歌いきることが出来ず、満席の観客に「すぐに戻ります」とことわり、よろめく身体をスタッフに支えられて控え室に戻った。公演中止を勧める周囲を説得し医師に薬を打たせ再びステージへ。
「歌い終わるまで死なないわ」ジョークで観客を安心させ“パダン・パダン”を歌い始めた。先ほどとは打って変わった入魂の歌い方だった。しかし、観客がノリはじめた矢先に突如倒れてしまい公演は幕切れとなった。
1915年12月19日。パリ・ベルヴィルの貧民街でエディット・ジョバンナ・ガションは生まれた。父ルイは大道芸人。母アネッタも街頭で歌をうたっては投げ銭をもらうストリート・シンガーである。やがてルイは軍に入隊し、エディットは父方の祖母に預けられた。祖母はノルマンディー・ベルネーで娼館を営んでいた。幼少時のエディットは娼婦たちに溺愛されて育った。
1935年10月、パリ・モンマルトル。19歳のエディットはかつての母と同じように街頭で歌っては日銭を稼いでいた。エディットが歌い、異母妹モモーヌが見物人から投げ銭を受け取る。「ひとりで歌うと物乞いだけど、二人で歌えばショーになるわ」
「君は“ピアフ(雀)”だ。“ラ・モーム・ピアフ(子雀)”だ」
キャバレー“ジェルニーズ”の支配人ルイ・ルプレにスカウトされたエディットはたちまち評判の歌手となった。ここでマルグリット・モノー(作曲家・ピアニスト)、ジャック・カネッティ(ラジオ・シテ局長)、レーモン・アッソ(作家・作曲家・詩人)など、その後の人生に影響をあたえる知己を得る。だが、程なくしてルイ・ルプレが何者かに殺害されてしまう。共犯の嫌疑をかけられたエディットの名声は地に落ちてしまった。
「人生を変えたければ生活を変えろ」
エディットはレーモン・アッソを頼った。レーモンの猛特訓を受けて歌唱力に磨きをかけ、“エディット・ピアフ”の芸名で再デビューを果たした。
1937年、ABC劇場での初公演の成功を皮切りに国民的シャンソン歌手として不動の地位を築いてゆく。
「聖テレーズよ、感謝いたします。私にマルセルをお与えくださって本当にありがとう。あなたのお陰で私は愛を見つけました」
1947年ニューヨーク。31歳のエディットはアメリカ初公演を果たした。
その期間中にプロボクサーのマルセル・セルダンと知り合い恋仲となった。だが、マルセルには妻子がいるのだった。そのマルセルは2年後の1949年に飛行機事故で急逝した。永遠の愛を歌い上げた“愛の賛歌”はピアフを代表する曲のひとつとなった。
更新: 名画座の怪人 (2008-08-15 17:52)







