アキラ さん
30代前半
男性
誕生日 : 10月3日
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2775件中1-10件
2008年9月18日 to WALKABOUT 美しき冒険旅行
Baadさん、訂正感謝します。
以下は同文の再投稿。
オーストラリア徘徊映画。発狂した父が拳銃を乱射して自殺。楽しかったはずのピクニックは一転。自家用車は炎上し子供たちは荒野に放り出され遭難。大人を捜して砂漠や原始林を彷徨い歩く14歳の少女とまだ幼い弟。厳しい自然環境は容赦なく彼らから体力を奪う。干涸びたオアシスで途方に暮れていた彼らの前に現れるアボリジニの青年。彼は2人に荒野での生き方を教えながら民家のある所まで案内する。だが辿り着いた民家に人の姿はない。長い間放置されている空家。アボリジニの青年には迷子を送り届けるという意識はなく、出会った少女を嫁にして一緒に暮らす為の家を探していた訳です。でも言葉が通じないから彼の気持ちに少女は気付かない。それどころか求愛する彼の態度に不信感を抱き始める。
カメラマンとして名高かったニコラスローグがカルト監督へと転身した一本。いかにも撮影の専門家らしく物語よりもイメージにテーマが表れるような構造。いわゆるヒッピー世代ならではの自由過ぎる発想に基づいたサイケデリック系映像を織り交ぜつつも静かに文明批判の眼差しを感じさせるモンタージュ。アボリジニが獲物を殺す映像とカットバックされる肉屋の屠殺解体。少女の尻とアボリジニの尻。など荒野での行動に文明圏での行動が挿入される。文明人は未開人に比べ何が優れているのか。そこに明確な答えはない。ただ生活が複雑化しているだけで本能的な部分は何も変わっちゃいない。その事実をニヒルに嘲笑うかのような映像構成です。当時売れ始めたジェネシス(ピーガブ作)の名曲の歌詞が頭を過ります。「この惑星の土壌を肥やす生命たち、その連鎖に終焉が迫る、またしても淘汰を繰り返す生命、それは子供の戯れと大差はない」人類にとって文明とはいかにちっぽけな指針でしかないかを再認識させられます。
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2008年9月18日 to パリ横断 (劇場未公開)
愉快、痛快、壮快。これは面白い。物資不足に悩む第二次世界大戦の終戦直前に闇市場の豚肉を届けるべく夜のパリを駆け抜けた男たちの物語。嫉妬深い愛妻家の元タクシードライバーが呑み屋で知り合った画家と共に肉を運ぶ。妻と密会される事を恐れての誘いだった。この画家を演じているのが我らのジャンギャバンな訳だが、このキャラがやる事なす事なんとも厚かましく豪快で爆笑シーンの連続。ひとり頭500フラン足らずの仕事で契約するはずが目ん玉ひんむいて大声でがなりまくり雇い主を脅しつけ5000フランもふんだくる。それどころか勝手にラム酒を呑んだり、荷物の豚肉を野良犬に与えたり、警察に荷物を没収されたふりをして別の闇市に流して儲けようなんて悪巧みを始めたり。彼は金に困らないほどの有名画家。にも関わらずあえて危険な橋を渡り善良な相棒を諭す。「金持ちは失う事を恐れているが、元々何も失う物がない貧乏人まで臆病になる必要はない」
地下鉄の入り口でバイオリンを奏でる老人。彼が弾いていたのはフランス国歌。そこへナチス将校が現れる。通行人たちの空気が張り詰める。するとナチス将校はバイオリンの音色に聴き入って彼にコインを施す。この冒頭部分にしても地元のフランス人も知らない画家を敬愛し庇おうとする将校たちにしても、終戦間もない頃の仏映画に描かれるナチスは文化面でフランスに対する憧れにも似た敬意を払っている事が多い。ドイツ人はクソ真面目だが冷血ではない。それぞれに人情がある。このような懐の深い人間観が作品にクレールにも似たやさしさを漂わせるクロードオータンララ。笑い事じゃ済まない危機的状況を描きながらここまで笑わせてしまうのは、その懐の深さ故かもしれない。
「権威主義を論破したはずの世代が今や権威主義でフランス映画への価値観を捩じ曲げている」この作品を紹介してくれた知人は呑みの席でそう語った。彼はリアルタイムでヌーベルバーグによる汚染を目の当たりにした世代。私はそこに付け加えた。実績のある権威主義を口先で論破し頭でっかちな空っぽの権威主義を打ち立てたからフランス映画は世界に忘れ去られた。私はカイエデュシネマの批評を否定はしないが今同じ過去の映画として対等に比べるとゴダールやトリュフォーやロメールやリヴェットが論破した過去の監督たちより良い仕事をしてるとは思えません。あらゆる疑問点をやり包めるだけの蘊蓄はあるが、それを味わいとして感じさせる含蓄がない。左岸派の中には記録や前衛の延長で鋭い創作を続けたレネやルーシュのように尊敬できる作家もいるが一般に浸透した右岸派はフランス映画の入門に向いていない。あまりにもネームバリューばかりが肥大化した彼らの影響があまりに強いので今では”フランス映画=小難しく気取った非娯楽”というイメージが一般的に蔓延しています。そんな偏見はフランスが娯楽映画最前線だった20世紀前半の作品に最初に出会っていれば吹っ飛びます。そして娯楽性においても芸術性においても確実にヌーベルバーグ以後に比べて質が高い作品はゴロゴロあります。残念ながらその多くは上映の機会があまりに少ない。
私が知る限りで断言するならば「ヌーベルバーグ以外は映画じゃない」とヒステリックに語る連中ほどフランス映画を知らない。狭い殻に閉じこもってる井の中の蛙です。一部のシネフィルを崇拝する事で自分もシネフィルになった気で狭い知識をひけらかす。右へ倣えで無責任に褒め称えるが面白さすらも理解していない。そんな連中が幼少時代から名画座に親しんだ我々映画ファンの芽を摘む。私の世代でもゴダール同様に独善的な方法を選んだマイケルムーアをドキュメント作家とする誤認がドキュメント史を知らない層に蔓延したり数少ないタランティーノ作品に触れただけで自分はサブカルに精通したと勘違いした輩がB級の認識を偏らせたり。結局、更に面白い作品を探し片っ端から娯楽を漁る映画ファンと違って、この手の輩は知ったかぶりをするのに都合の良いカテゴリーを作り上げたいだけの教条主義者。それらの狂信が一般客と本当に面白い傑作との間を隔ててしまうとは何とも勿体ない。インテリぶった連中の狂信が蔓延る事で一般客に食わず嫌いを起こさせる。もし常にこの作品のように蘊蓄ではなく含蓄溢れる娯楽を提示し続ければ食わず嫌いなど起きないだろうに。
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2008年9月18日 to 肉屋 (劇場未公開)
過去に大失恋をして以来、人を愛する事に臆病になった村中の子供に人気の女教師。彼女の前に現れたのはインドシナ戦争での12年の兵役から戻り家業を継いだ肉屋。友人の結婚式で2人は出会う。その頃から村では若い女性を狙った惨殺事件が多発。この小さな村には珍しい連続猟奇殺人事件として警察は捜査を始める。そんなある日、女教師は新たなる遺体を発見。その現場には誕生日プレゼントとして肉屋に渡したライターが落ちていた。肉屋への猜疑心に揺れる女教師。最期の恋になるかもしれない相手への信頼との間で葛藤。シンプルながらにハラハラさせられます。
いつものシャブロル節です。単純なミステリーから巧妙に注意を逸らして予想を裏切るタイプ。バルザックを教える女教師。部屋に飾られたモジリアーニ。相変わらず意味深な記号が惑わす。今回に関しては、あまりにテーゼ通りだったので逆に裏の裏をかかれたって感もあるが。それにしても死体発見のシーンの感覚的な上手さには舌を巻いた。社会科見学。生徒を引率して鍾乳洞を見学した後、崖の中腹で生徒たちとピクニックをする女教師。彼女は生徒たちにクッキーを配る。すると生徒のひとりが「雨です」空には雲ひとつない。首を捻っていると「この雨なんで赤いの?」クッキーの上にポタリポタリと滴り落ちる赤い液体。見上げると生徒の頭上に女性の刺殺体。こりゃたまらん。100%トラウマになりそー。こーゆー見せ方こそ見習うべき上手い演出。
2008年9月18日 to 最後の切り札 (劇場未公開)
警察学校の卒業検定。主席卒業候補が2人。どちらとも甲乙付け難い。そんな訳で特別に実際の現場で手柄をあげた方にトップの座を与えるべく捜査の現場へ送り出される2人の学生。彼らが踏んだ現場は一見単純な痴話騒動による殺人現場。だが調べを進めるうちに大物ギャングの名前が浮上。彼はかつて相棒に盗まれた金を取り戻すべく組織を動かしていた。それに対し学生は無謀な潜入捜査に踏み切る。学園モノと思いきやミステリーに流れ、ミステリーと思いきやクライムアクションに流れ、軽快にコミカルに展開。何とも贅沢に詰め込まれた娯楽。ただどの要素もイマイチ中途半端に終わってる訳だけど。
サスペンス監督として名高いジャックベッケルの初期作品。どうも全盛期に比べると全体的に辿々しい。娯楽要素を詰め込んでいるのは分かるけど、所々でトリックを見せ過ぎたり見せなさ過ぎたり。先に分からせた方が面白いコメディ要素と後で分かった方が面白いミステリー要素が入り交じっている訳だが、そこの整理がイマイチ上手くいってない。ネックレスがすり替わるシーンにしても手元に寄らない上にカメラがパンしてる最中にやるものだがら、その場では何がすり変ったのか分かり辛く鑑定士が「何故だか偽物と思い込んでいます」って云うシーンでそれがネックレスだったのかと合点が行く。鑑定士の台詞で笑わせようとしてる訳だが、これだと納得してる間に笑うタイミングを逃してしまいます。こーゆー細かい不備が目立ってはいたが娯楽センスは確かにベッケル節。
2008年9月18日 to 野蛮な遊戯 (劇場未公開)
何てつらい作品なんだろう。胸が痛くて涙すら出なかった。
生まれつき足に障害がある少女が広場を眺めながら呟く。「もし爆弾を仕掛けるなら皆が集まっている市場を吹き飛ばせば愉快」近所の川辺に出かけては小動物の足をもぎ取り虐殺を楽しむ。全てくたばれ。生きてる奴は気に食わない。自分の動かない足を世の中を神を呪い続ける。それは憐れみの眼差しにプライドをズタズタにされ続ける弱者の当然の抵抗。それを大人たちは「まるで悪魔憑きだ」と忌み嫌う。彼女を施設から引き取った父は変わり者の記号学者。障害児だからって遠慮はしない。容赦なくぶん殴って仕付ける。そのストレートな態度に最初は反抗していた娘も次第に心を開き始める。だが彼に愛情はない。自然の摂理に対する確固たる思想があるだけ。それは異常なまでに冷徹。淘汰すべき記号に置き換えられた人間の命。
何とも挑発的なブリソーのデビュー作。元々彼の仕事にはあまり注目していなかったが、この作品に出会って見方がガラリと変りました。人間の性や命への懐疑的な眼差しは『白い婚礼』や『はじらい』でも伺い知る事ができるが、この作品ほど強烈ではありません。性描写だけは相変わらず過激な訳だが。確かに彼が扱っているテーマは性の問題なくして語れない所にはあります。今作でも少女が勝手に家庭教師の弟に片想いして他の女との情事に怒り狂ったりもします。そして父親が娘の存在を計算外と一蹴したりもします。生命とは本当に尊いのだろうか。そんな疑問が確固として付いてまわる。生まれるも死ぬも偶然。話の構造自体はありきたりなサスペンスに流れる訳だが、ヒロインの存在は反骨精神に溢れた問いを痛いほど強烈に我々に投げかけます。
2008年9月18日 to 海の沈黙 (劇場未公開)
腐る程ありきたりなスチュエーション。ナチス統治下のフランス。とある民家に間借りしたドイツ人将校との交流を描いたナラタージュ。民家に住む老人とその姪。将校は規律正しく夕食時には民家へ戻り老人たちと団らんを楽しもうとする。だが老人たちは将校の言葉に対し沈黙を貫く事でフランス人としてのささやかなる抵抗を示す。すると将校は彼らの反応を期待せずに夕食毎に独白を続ける。元々彼は戦前からフランス文化に造詣が深く幼い頃からフランスに憧れていたらしい。「音楽はドイツだが文学はフランス」「故郷の雪は厳しいがフランスの雪は繊細」毎夜フランス文化を賛美し時にはオルガンでバッハのフーガを弾いて聴かせる。しばらくするとそれが日課のようになり老人と姪は密かに彼の話に耳を傾ける夕べを楽しむようになる。ところがそんな折、突然、彼が姿を見せなくなる。しばらくの後、別れを告げに現れた将校。彼は生きては戻れないであろう前線に旅立つ。なぜなら焦土作戦を拒否したから。フランス文化を誰よりも愛した彼にはそんな悪徳に加担する事はできない。苦渋の決断を下した彼に老人たちの良心は揺らぐ。
ノワール監督として名高いメルヴィルの初期作品。意外にも静かに激しく心を揺さぶる傑作。個人的にはコクトーのネームバリューが作用した出世作『恐るべき子供たち』なんかよりも世に出るべき力を持った作品に思えます。表層は後のギャング映画に比べ堅苦しい印象があるが内実は実に人情味溢れるドラマです。ナチスについては後に『影の軍隊』でも扱っているが、この作品と比べると霞んでしまいます。半強制的に押し掛けた不気味なナチス将校。プライドが高く無骨なドイツ人。互いへの警戒心で張り詰めた部屋の空気。繊細な精神的駆け引きの中で生まれた信頼。そこにはシンプルながらに赤の他人と近付くサスペンスフルな緊張や人と人が認め合う瞬間のドラマティックな感動があります。その感情を極めてセンシティヴに紡ぎ出す。ありきたりなスチュエーションと低予算故の制約なんて全く気にならない珠玉の人間ドラマ。
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2008年9月18日 to 罪の天使たち (劇場未公開)
前科者でも受け入れる特殊な修道院に関わる人々の群像劇。冤罪を訴え続けるテレーズ。看守に反抗し続ける問題児。彼女は出所後、自分をハメた男を殺害し修道院に逃げ込む。彼女の面倒を見る事を買って出たシスターはお嬢様育ち。母の慈善事業の延長程度の心積り。口先では覚悟があるなんてぬかしてもブルジョワの傲慢は拭えない。自分は前科者でもないのに進んで弱者を救済していると内心おごり他の者を見下している。だから彼女を疎ましく思う者も多く浮いている。その事実を彼女自身は認められない。彼女は皆に尊敬され好かれたい程度の気持ちで飛び込んだKY。痛みを知る者同士が痛みを分かち合う本当の施しの場であるこの修道院に彼女の存在は場違い。
云わずと知れたブレッソンのデビュー作。この頃はまだ語り口が極端に省略されていないので描こうとする対象が個人よりも集団の倫理にある事が分かり易い。冒頭の字幕で語られる通り一元的な倫理では片付かない、その場に的確な倫理を提示する。まるでワイズマンにも共通する現場の特異性を尊重した立場の撮り方です。正しい事はTPOによって変ります。前科者よりお嬢様が優遇される一般的な社会の常識はこのコミュニティ内では通りません。だからってそれは悪ではない。過ちに寛容になる事で保たれる心の平安は必ずしも堕落とは呼べない。むしろ押し付けがましい善意を権威として振り回す事の方が人徳に反する悪です。この手の現場至上のジャーナリズムにも似たコミュニティに密着した善悪の観念こそがブレッソン作品の根底には確固としてある一貫したテーマに思えます。
2008年9月18日 to 誰でもかまわない (劇場未公開)
小学校の国語(フランス語)の教科書。最初に教える単語は”愛する”ではなくて”疑う”という言葉の意味。そんな会話を交わす恋する女と地元の刑事。ふたりともまだティーン世代。ただその関係は少しばかり複雑。彼女が愛する男はバツイチ子持ちのチンピラ。刑事と彼は地元仲間。でも刑事は彼に興味がある訳ではなく彼が連れ帰った新しい恋人を奪おうとしている。その上、かつては彼の元妻とも愛人関係にあった。何気なく交わした会話は真を突く。本当は誰が誰を愛しているのか、愛する前に疑わねば事態はこんがらがる一方。チンピラと女の逃避行はエスカレートし、まるでボニー&クライドのように暴発しかける。だが彼らは立ち止まり本気を疑うという事を憶えていた。
ドワイヨンの新作は『家族生活』を思い出させるような複雑な家庭事情に悩みながら焦燥感にかられる若い恋人たちのドラマ。何故に彼の作品はここまで子供の演出が上手いのか少しだけ分かったような気がしました。彼の眼差しは違う世代への先入観を全く感じさせません。誰もがちゃんと大人な考え方を理解できるし誰もが子供の愚かさを失わない。そんな風に考えなければこんな脚本を作ろうとは思えません。子役であっても大人と対等な個人として扱っているのではないだろうか。大人のように腕力もなければ議論する知識もないのが子供。だが心は大人と変らない。生きる闘志がある。川辺で3年ぶりに再会した実の娘の沈黙に耐え切れなくなる父の姿を見ていると、大人も子供も大差はないなんて感覚に陥ります。娯楽度は低いがいかにもドワイヨンらしく上手いリアリズム。
2008年9月18日 to フォトグラフ (劇場未公開)
古びた写真館を経営する老いた変わり者の華僑。過去に囚われながら生きる彼の最期を見つめるインドネシア映画。狂言回しとなるのは彼の写真館に間借りした現地人女性。彼女は下層労働者。親元に実の娘を預けて、ひとり働きに出ている。両親に服にボタンを付ける工員の仕事をしていると偽りながら水商売を続ける。堅気の商売では充分な仕送りはできない。娘を食わせる為にも職種を選んでいられない。過去ではなく今を生きる為にと彼女は路上で客を引く。ポン引きに金を毟り取られ売春の他にはこの都会に生きる方法がない。そんな彼女に老人は写真館の跡継ぎ探しを手伝わせる。町外れを通る列車の線路に供え物をして線香を焚くのが日課。かつてそこで命を落とした彼の家族への供養。家族への申し訳ない気持ちと後悔から立ち直れないままの彼との生活を通し彼女は次第に今を生きるという事の意味を見つめ直す。
アジア海洋映画祭の客層には相応しくない程に硬質なドラマでした。東南アジアの都市部に生きる低所得層の貧困や暴力がまるで梁石日を連想させる程に救いなく描き込まれています。華僑の老人から女性が学んだ事については表現が曖昧だが人が生きるという事の厳しさや、そこから少しの間だけ抜け出す開放感など感覚描写が厳しさや残酷さを偽らないからこそ実に豊かに表れています。借金取りに追われて塵と埃にまみれたゴミだらけの部屋に転がり込むヒロイン。娘に会いに帰る余裕すらなく電話口で娘の声を聴いて泣き崩れる彼女を容赦なく売り飛ばしレイプする男たち。線路脇にしゃがみ込む老人。思わず『インシアン』(フィリピン)や『苦いひとくち』(インド)を連想させられました。娯楽度を重視したこの映画祭の価値基準では箸にも棒にも掛からないかもしれないが、この手の正直な感覚描写をぶつけて来るような作品に挑む気概が商業に腐りつつある東南アジア映画界にも未だに残っていてくれた事を嬉しく思います。
2008年9月18日 to バタネス
Actor>KEN CHU
別に私は”花より団子”のファンって訳じゃないが以前図書館で”F4”のベストアルバムを聴いて以来、ミュージシャンとして注目していました。いかにもアイドルスターらしく登場シーンから自殺未遂して台湾から流されて来たにしてはバッチリ髪型が決まっちゃってます。常にちょっと目にかかる位の前髪はトレードマーク。我々アジア系の基準からすれば線が細い感じのハンサムな訳だが東南アジア系の基準からすれば少し幼く見えるかもしれない。母国台湾で妻と息子に捨てられ流されて来たって設定な訳だけど彼が登場人物である島民の中で一番苦労知らずに見えてマスコット的な可愛さがあります。
Actress>IZA CALZADO
フィリピンじゃ知名度のある割とお堅い系のTVスター。その経歴に恥じず見るからに善良そうで絶対に悪女役なんてできなさそう。この作品にはロマンチックなベッドシーンも何度かある訳だがエロさを全く感じません。迷いのない決意による契りとしかならない。母性すらも感じさせます。相手役の男性が2人とも幼い所があるからかもしれないが大らかに包み込む母のような存在感を発しています。どんなダメ男でも更正させちゃいそうな物腰。海の雄大さを語ったこの作品イメージにピッタリ。あえて低俗な云い方をすればエッチしてもつまらなそうだが、いつまでも一緒にいたくなるタイプの女性。
資金面が厳しいフィリピン映画界で最近『ドンソル』『山羊』等の作品を勢力的に発表し続けるアドルフォアリックスJr監督。今回は何とフィルム収録。だが技術的には不備だらけ。どうも現地スタッフは現場のステップワークには慣れているがマニュアル操作が必要な高級機材の扱いには慣れていないみたい。夜間シーンや室内シーンは明らかにどれもピンボケ。昼間の屋外シーンは夏の太陽による強力な光量のおかげでパンフォーカスに救われているが、それ以外は明らかに狙いじゃなくピンがズレています。計測ミスかレンズの整備不良か。18日間のロケは撮り直しが効かない。スケジュール管理が厳しいスター映画は特にそう。
これは2大スターの存在感で押し切ったオリエンタルラブストーリー。典型的なメロドラマのパターンを辿っていて質もお世辞にも高いとは云えない。だがヒリピン北部の漁村バタネスの自然と都会の対比は実に上手くいってます。パーティに出した豆で日本大使が腹を壊したと上司に電話口で呵られるヒロイン。リストには問題がなかったはずと調理場に確認してみると豆料理なんてリストにないと突っ返され電話口で口論しているとストリートチルドレンにケータイを引ったくられる。慌てて追いかけると駅の改札で前方不注意の青年と激突。青年も犯人の一味だと捲し立てると青年はチックを起こしてぶっ倒れる。この冒頭部分のストレスフルな閉塞感は実に巧みに望郷へと誘います。そして自然の猛威と闘う田舎の生活も決して楽ではないが前半にはない開放感と温かみを残してくれます。リゾート感タップリで実に心地良い作品。